「人をもっと複雑に描きたかった」。「汀」に佇む、具象画家、諏訪敦の現在地
Atsushi Suwa
photography: daisuke nakashima
interview & text: sakiko fukuhara
圧倒的な描写力でどこまでも細密に描かれた写実絵画。ただ、画家、諏訪敦が取り組む表現は、リアリズムを表面的になぞる行為ではない。1999年に舞踏家、大野一雄・慶人親子を描いた作品でキャリアをスタートさせ、集中治療病棟で眠る父を描いた「father」、ヴァニタスという西洋画の寓意性を無効化させた「どうせなにもみせない」、終戦直後、満蒙開拓団だった親族がたどった悲劇を描いた「HARBIN 1945 WINTER」と、徹底的な取材とリサーチを制作の前提とし、常に複数の視点から具象絵画にアプローチしてきた諏訪。そんな彼がコロナ禍を経て対面したのは、「人間を描きたいという気持ちを徐々に失っていった」 という自身の感情だったという。
現在、WHAT MUSEUM で開催中の大規模個展「諏訪敦|きみはうつくしい」は、そんな心情を経て、新しい挑戦に取り組む美術家の姿をドキュメンタリー的解釈で構成した展覧会だ。目に見えるもの / 見えないもの、生きているもの / 死んでいるもの。その境界線を波のようにうつろいながら、新しい問いと向き合う諏訪の現在について話を聞いた。
「人をもっと複雑に描きたかった」。「汀」に佇む、具象画家、諏訪敦の現在地
Portraits
―まず、キャリアのスタート地点からお話を伺えたらと思います。大学院在学中の1990年頃、当時はコンセプチュアルアートが台頭してきた時代かと思いますが、そのような時代背景の中で具象画の道へ進んだ当時の想いについて教えてください。
私が武蔵野美術大学大学院に在籍していた1990年代はじめは、シリアスにアートに向き合おうという学生たちの中にいると、無意識のうちに抽象画や、むしろ描かない方向のアートに誘導される空気でした。そんなムードに反発していたわけではないのですが、そもそも絵が好きで、絵が描けるということを頼みに入った大学なのに、素朴に見たままを描くと何故、こうも見下されるのかっていう感覚がありました。元々はなけなしのアイデアでこしらえたものに過ぎない自分の創作……それを知りつつも、同時代のアートとして評価するに十分なものであると、申請書を書くかのような制作の在り方には、どうしても馴染めなくて。「批評対象になる領域」というものをよく理解できないまま、そこから弾き出されたように感じていた私は、時流から距離をとっていたといわれるジョルジョ・モランディや、現代スペイン・リアリズムの別格、アントニオ・ロペス・ガルシアなどを、ロールモデルとして見定めていたように思います。
―大学院を卒業後はどのような生活を送っていらしたのですか?
大学院を修了して大学に残る道は選ばずに、いわゆるスーパーゼネコンに入社し、建築設計の部署に配属され8年間勤めました。完成予想図を作るパースの技術は、美大で学んだルネサンス以来の線遠近法が正統進化したようなものだったので、なんとか仕事には貢献でき、2000年の退職間際には、フル CG でウオークスルーアニメーションを制作していました。そんな会社員生活の中で2年間休職して、1994年にスペインへ国費留学したんです。マドリード・リアリズムという動きにわずかな鉱脈を感じて、スペイン語もわからないまま、とりあえず行ってみようと。スペインでの生活で制作の他には、現地の画家たちとの交流を心がけながら、プラド美術館で模写をして過ごしていました。思い出深いのはドイツ・ルネサンスの巨匠、アルブレヒト・デューラー26歳の『自画像』(1498年)の模写に取り組んだときでした。版画家としても有名な人ですが、絵画の技術も素晴らしく、なめし革の手袋に流行のファッションに身を包んだ姿は、「私は手を汚すような職人階級ではなく、芸術家という新たな知識階層である」と言わんばかりで、明らかに容姿に自信を持っていたデューラーの、矜持と自尊心を表していたかのように思います。デューラーが自分と同じような年齢の時に描いた作品を模写したら、なにかの基準が得られるような予感がありました。
―スペイン滞在時には、諏訪さんが尊敬するアントニオ・ロペス・ガルシアとも実際にお会いしたそうですね。
国費留学の期間を満了する1ヶ月前の、帰国を控えた頃に街中で偶然知り合ったことがきっかけでした。私はスペインで参加したコンクールで幸運にも大賞を獲れたのですが、それについて現地の新聞記事に「アントニオ・ロペスの芸術が、私をスペインにいざなった」という見出しが大きく載って。たまたま持っていたその記事の切り抜きをロペスに見せたら、すごく喜んで自宅に招いてくださったのです。印象的だったのは、彼は描くことを最優先にする人なので、こう言うのです。「数日の間に約束しましょう。ただ私はその日ごとに仕事場を変えますから……晴れた日はテラスに、気が向いたら通りにとか…根気強く連絡してください」。つまり自分で誘っておきながら、先の約束ができない (笑)。そんな紆余曲折を経て、なんとかロペスに会え、インタビューを収録することができました。この運命的な出会いと経験はとても重要な出来事でした。
―諏訪さんの絵画作品は対象への真摯な取材を経て描かれることでも知られますが、ジャーナリズム的アプローチを取れ入れるようになった契機はあるのでしょうか?
リアリズム絵画について考えた時、うまく描いただけでそれなりの価値が発生してしまうことに違和感を感じられるかもしれません。造形的な進化を諦めている表現といいますか。絵画の歴史は、ものの見方を刷新し続けた流れであると思うのですが、そっくりそのまま描くっていう在り方は近代以前に完成しているのです。だから現代美術の議論の中で、一般的に写実絵画が吟味の対象にならないという構造はよく理解できる。一方でアントニオ・ロペス・ガルシアの場合は行為的な価値も広く認められているのでしょうけど、特に60〜70年代の仕事はとてつもなくて、何の衒いもない素朴な絵画がとんでもない作品強度をもっていることに、一縷の望みを感じたのです。とはいえ私は数多いるロペスのフォロワーの列に並ぶことについては、はっきりと拒絶したかったのです。尊敬の念は大切にし続けたいけれど、自分なりのアプローチを探す必要性を痛感していたし、私は「人」もっと複雑に描きたかった。「人」ひとり描くだけでも、その背後に流れているものを無視はできません。

『Untitled』2007(部分)
―ジャーナリスト佐藤和孝さんとの出会いも諏訪さんにとって重要な出来事だったと聞きました。
佐藤さんとは20歳くらいの時に出会って、とても仲良くなりました。酒場では「俺の弟のようなもんだ」とまで言ってくださいます。出会って数年のうちに彼はビデオ・ジャーナリズムの世界で国際的な存在になっていきますが、彼が撮った NHK のドキュメンタリー「サラエボの冬―戦火の群像を記録する」(1994年)を観て衝撃を受けました。それは従来のニュースのように戦争を俯瞰的に、あたかも神の視座から情報として伝えたものではなく、爆弾を落とされる側の人たち……戦時下の街でカフェの開店を目論む休暇中の兵士や、不条理を訴える異民族間の恋人たちなど、圧倒的な暴力の下で生きなければならない人たちに寄り添う内容でした。その映像の臨場感は、当時画期的だったのです。一方、自分ができることの中で、それに匹敵する濃厚さを実現できないのかと自問した時に、大野一雄さんとの仕事に繋がっていったように思います。
―やはり大野一雄さんを描いた作品が諏訪さんの原点なのですね。
大野一雄さんを描き始めた頃から、その人がもつ背景が、今目の前に現れる姿と強く関係していると感じました。知り得た内容のすべてが絵に現れているかといわれるとわからない。おそらくほとんど無駄なのですが、大野一雄さんと出会ってから、取材プロセスの充実度は重要になっていきました。無駄な行為そのものに魅了されてしまったのかもしれません。あるいは人を描く行為に潜む原罪……「表面を引き写しているだけではないのか」という後ろめたさを打ち消すための手管でもありました。
ただその中で、また別の問題が起立していきました。大野さんのように特別な存在を描けば、素晴らしい作品になるのか。像主に多くのものを負わせ過ぎているのでは?という疑い。つまり「対象への寄りかかり」という問題です。現実に在る観察対象を必要とする写実絵画の、宿命的な問題とも言えるのですが、気づきを得たのと同時に宿題も抱えることになりました。死者たちのように実見が不可能な対象を描く仕事に没頭していった理由はここにあります。
―続いて、本展『諏訪敦|きみはうつくしい』についてお話を聞けたらと思います。今回の展示は宮本武典さんが展示構成を担当し、初期の代表的作品を入口に、5つのテーマに分けられ展示されています。
冒頭で、学生時代から抱えてきたルサンチマン的な感情をお話しましたが、ときには「見られたい自分」として粉飾しなければならず、それはとても苦しかった。似合わない服を着ていることをわかっていながら、虚勢を張っているような感覚です。しかし一方で、他人の目に映った「自分」のほうが、私を的確にとらえている気もしていて。
だから今回の個展を引き受けるにあたり、WHAT MUSEUM 内の企画チームに加えて、東京藝術大学の宮本武典さんを招き、彼に展示構成を依頼しようと思いました。彼はキャリアの初期に「舟越桂 自分の顔に語る 他人の顔に聴く」(2007年) や「曺徳鉉 Flashback」(2009年)、「向井山朋子 夜想曲」(2011年) などの印象的な展覧会を企画してきた。繊細に物語を紡ぎ出す特別な才能と、言葉に対する感受性、そしてその手つきに注目し続けていたからです。昨今は学芸員のみならず、アーティストや批評家によるキュレーションも目にしますが、その行為が作家性を帯びる中で、私は「宮本武典から見た私」を徹底的に肯定し、その状況を楽しむことを自分に言い聞かせました。

WHAT MUSEUM 展示風景 「諏訪敦|きみはうつくしい」 Photo by Keizo KIOKU
―展示タイトル「きみはうつくしい」に込められた想いについて教えてください。ヌードと頭蓋骨を描いた「どうせなにもみえない」(2011年)とのアンビバレンスな関係性も印象に残りました。
今回の展示は、宮本さんが私から引き出したストーリーを縦糸に、5つのテーマで構成しているのですが、タイトルについても私が発した言葉から、宮本さんが拾い出してくれました。これまでを振り返っても、展示タイトルには助けられてきたと思います。たとえばインパクトのある造語、『眼窩裏の火事』(2022年) の時は、学芸部とのキックオフミーティングの時、直感的に黒板に「こうします」と書いたらそのまま決まりました。『どうせなにもみえない』(2011) は、すごく挑発的だし、やさぐれた感もあるタイトルですが、結果的に私の認知も大きく広がりました。「彼は何が見えてないのかな」っていう一つの問いが発動したのでしょう。展示タイトルはスローガンのようでもあり、制作のモチベーションを引き出してくれるものでもあります。
―「うつくしい」という言葉を選んだのは?
「美」「うつくしい」の存在は疑いようもないのだけど、それだけを取り出して示せ、と詰め寄られたとすれば困ってしまいますよね。線と線の交わるところ、あるいは線の端として定義される「点」のようなものなのかもしれません。
今回の展覧会では「美を多義的に検討する」というのがひとつの課題でもありましたが、定期的に会っていた神経美学者の石津智大さんが多くの知見を分けてくださいました。死の瀬戸際にいる母を描いた『mother』

「mother / 16 DEC 2024」 2024 Photo by Keizo KIOKU
―コロナ禍以降「人間を描きたいという気持ちを徐々に失っていった」という諏訪さんの体験を経て、SPACE4「語り出さないのか」とSPACE 5「汀にて」では新作が展示されています。当時の心情について、もう少し詳しく教えていただけますでしょうか?
いろいろなタイミングがあると思うんです。「人間を描きたいという気持ちを徐々に失っていった」という心境をポジティブに言い換えるのであれば、静物画を描くことが楽しくなったと考えることもできます。それが今回、SPACE4「語り出さないのか」で発表した静物画のシリーズです。認知の歪みをフックに自分の中で諦めていた造形的な新しさを見出せる気がしたのです。客観的に誰もが共有できるビジョンではなく、自分の内側のビジョンを描けばいいと居直ったところがあって、今もその探究は続いています。
そして母を描いたことを経て、人物画に復帰しなければと考えた時に、「対象の寄りかかり」という懸念に対する応答として、特別な人物を探すのではなく、「描画対象を自前で作ろう」と思い立ち、彫刻的な技術を持ち合わせない私は「Bricolage (ブリコラージュ)」という手法をとりました。彫刻のための特別な素材を用意するのではなく、自分の家にあるものの寄せ集めでヒトガタを作ろうと。だから外壁用充填材や包帯、専門の絵画用素材、さらには介護用のステンレス製の手すりで、重いヒトガタを支えながらの制作でした。構造主義を唱えたレヴィ=ストロースが「野生の思考」の中でブリコラージュについて語っていますが、この論考は、静物画のシリーズの拠り所でしたので、思いがけず繋がった感覚がありました。それが新作「汀にて」の作品群への駆動力にもなりました。

「むべなるかな」2024-2025

―「汀にて」はドローイング、ペインティング、人型と、異なる手法を一つの作品に取り入れていますが、制作過程はどのようなものだったのでしょう?
「完成」という概念を自分の中からいかに追放するかも、私的な企みでした。中央に配置した『汀にて(Bricolage)』を作る時、立派なトロフィーのような彫刻を作ろうという意識は全くなくて、ドローイングからペインティングへと循環する結節点のようなものです。先日展示を観に来てくれた山田五郎さんは「時計みたいだ」とおっしゃられていました。私にとっては行為的な意味があり、闘いを共にしたような感覚があります。

アトリエ風景 Photo by Keizo KIOKU
―「行為的」な意味があるという点について、もう少し詳しくお聞きしても良いですか?
共に生活をしていたという感覚でしょうか。時系列に伴ってだんだんと出来上がっていくというよりは、立体、ドローイング、巨大なタブローと、異なるアプローチの間を巡回しながら作り上げていきました。それはある規則性を生み、「行為」というより、日常がくっついた「営為」というのがふさわしいかもしれません。
―展示室に貼られた「〈ひと〉と〈モノ〉の汀 (みぎわ) に立ち尽くしているみたいだ」という言葉も印象的でした。今回「汀」という言葉を選んだのは?
「汀 (みぎわ)」というタイトルをつける際にイメージしたのは波打ち際です。波が打ち寄せるたびに砂浜にはさまざまな曲線、境界線が描かれていきます。海の上限と空気の底にあたる、その境界線には、海藻や貝類、小魚などが打ち上げられているでしょう。病床の母の呼吸を観察していた時に、そんな情景を思い出しました。私は生きているもの / 死んでいるものの両方を描く機会が多くありますが、それらの領域は明確に分かれているものではありません。母親が亡くなった時に、私は死に目に会うことができませんでした。病院に着いたら生命維持装置がものすごい音を立てていましたが、家族が到着するまでお医者さんは装置を止めずにいてくださいました。装置を止めた時をもって、医師が認定する死亡時間としてくれたわけです。ただ、医師による生死の判定が出ても、身体の部位のどこかは確実に生きているわけで、私は母の際に立ち会っていたとも考えられるでしょう。他人に咎められるまでもなく、死にそうな人間を描くっていうのはやはり、良心が疼くものです。動きを止めて物体に近づいているような母を描いていると、静物画を描いているような感覚にもなりました。「汀」という言葉について考えた時、「なぎさ」とも読めますが、「なぎさ」はもっと視野が広く、風景も含んだイメージですよね。「みぎわ」はあまり馴染みがなく、誰もがちょっと考えさせられる言葉。私は人とモノ、生と死。境界線があるようでない状態を「汀 (みぎわ)」という言葉に託したのでした。それは未だ判然としない、私の未踏の絵画……













