沈黙の中に真実を描く。映画監督ジョシュア・オッペンハイマーの新境地
Joshua Oppenheimer
photography: rei kuroda
interview & text: mami hidaka
『アクト・オブ・キリング』(2012)と『ルック・オブ・サイレンス』(2014)。インドネシアでの大虐殺を巡るふたつのドキュメンタリー映画で、加害者の語りを引き出し、社会の沈黙を暴いた Joshua Oppenheimer (ジョシュア・オッペンハイマー)。彼が初となる長編フィクション『The End (ジ・エンド)』で舞台に選んだのは、地表に人が居住不可能になってから25年後の世界だ。気候変動により壊滅した世界で、豪華な地下シェルターに隠れ住むある家族の姿を、ミュージカルを織り交ぜながら描いている。
一見、黄金期のハリウッドミュージカルを彷彿とさせる本作だが、優雅な表現で抉り出されるのは、悲劇をもたらす自己欺瞞の恐ろしさである。なぜ今、彼はフィクション、それもミュージカルという形式を必要としたのだろうか。
沈黙の中に真実を描く。映画監督ジョシュア・オッペンハイマーの新境地
Film
—物語の核となるコンセプトをお聞かせください。
私がこの作品で描きたかったのは、壊滅的な地球環境の中で、家族全員が精一杯互いを支えようとしながらも失敗を繰り返す姿です。失敗の理由は、最も重要な真実について自分自身に嘘をつき、さらにその嘘を身近な人に押し付けていく“自己欺瞞”に他なりません。家族の姿を通じて、自己欺瞞がいかにして愛する能力を損なっていくのかを描いています。
—劇中では、一行が坑道で意識を失った少女を発見し、尋問するためにシェルターに連れ帰るところから空気が大きく変わっていきますね。家族が死に、自分だけが生き残ってしまったトラウマに苛まれる彼女の言葉に耳を塞ぐシーンは、まさに象徴的な自己欺瞞のシーンでした。自己欺瞞を重ねていった先に歴史修正主義的なムードも生まれると思いますが、監督は社会問題や記憶の継承については、どのような視点をお持ちですか?
『The End (ジ・エンド)』はフィクションですが、ある実在の石油王との出会いから生まれた作品です。彼は暴力的な手段で採掘権を獲得し、莫大な富を築きましたが、気候変動の大災害から逃れるために、実際に地下シェルターのような施設を買い取ろうとしていました。彼に誘われてその地下シェルターを案内されるうちに、私は強い罪悪感に苛まれたのです。 もしここに避難することになったら、彼は石油王として自らが引き起こした大災害への罪悪感とどう向き合うのか? 愛する者を置き去りにした後悔をどう処理しながら生きていくのか?と思うようになりました。もし家族と共に生きていくとしても、閉じられた空間で、子供や孫を理想の自己像を投影するための白紙のキャンバスのように利用してしまうのではないか? と。人間は言い訳を作り上げ、言い訳にしがみついて後悔を和らげながら自らの行動を正当化し、どういうわけかその嘘を自分自身に信じ込ませていってしまう。『The End (ジ・エンド)』は、この家族が語らない部分にこそ真実が現れるとして、沈黙に焦点を当てた映画です。家族の絆を繊細につなぎとめていた暗黙の了解が崩れた時、何が起こるのかを探求しました。
—完璧主義な母親の美術品の管理や壁の塗り替え、季節の移ろいを表現するための地下壕の装飾も印象的でした。破滅に向かいながら、すべてを細部まで完璧に見せることに執着する母親の姿は、きわめて空虚に感じられました。
劇中の母親ら年配世代は、破滅へと向かう現実と共存し、奈落の底へと真っ直ぐ突き進んでいる世代です。物語の終盤、彼らはもはや自由落下の状態にあります。崖の縁を離れて落下している最中なのに、自分たちはまだ前進しているのだと言い聞かせています。『The End (ジ・エンド)』は「黙示録的ミュージカル」と表現されることが多いですが、そもそも黙示録とは何を意味するのかを考える必要があります。英語で黙示録を意味する“apocalypse”は、ギリシャ語で「明らかにすること」や「覆い隠されたものを現すこと」を意味します。聖書の黙示録が人類の終焉を明らかにする書物であるように、『The End (ジ・エンド)』における黙示とは単なる災害ではなく、それによって何かが「露呈」することなのです。人類が地球から炭素を掘り出し、燃やし続ければ、地球が終わることを知っているという意味で、私たちは初めて黙示を受けた人類であり、すでにポスト黙示録の時代を生きています。『The End (ジ・エンド)』の家族は、私たち全員のメタファーなのです。
—『The End (ジ・エンド)』は、未来ではなく現在についての寓話なのですね。
登場人物に名前がないのは、彼らが私であり、あなたであるから。観客が彼らの中に自分自身の姿を見ずにはいられなくなることを願っています。絶望的に見える結末も、警告を心に刻む時間はまだ残されているからこそつくりあげた希望の表明なのです。
—ミュージカルという形式を選択したことで、どのような表現が可能になりましたか。
ミュージカルは、一般的には言葉では表現しきれない真実を歌い上げるとも言われますが、実際にはその歌詞の多くは非常に感傷的、あるいは馬鹿げたほど楽観的です。現実の葛藤や問題から逃れようとする試みに思えます。私にとって、この現実逃避は「希望」という羊の皮を被った「絶望の狼」です。現実を認めようとしない限り、問題を解決する希望など生まれないからです。また、『The End (ジ・エンド)』でのミュージカルの表現は、『アクト・オブ・キリング』と地続きにあります。あの映画の劇中劇でも、虐殺の加害者 Anwar Congo (アンワル・コンゴ) が衣装や舞台装置にすがり、自分は重大な過ちを犯していないと自らを納得させようとした姿を描きました。『The End (ジ・エンド)』では登場人物たちにあえて嘘を歌わせ、真実が顔を出すのは、歌の内容が嘘だと気づき、歌えなくなる瞬間の沈黙の中のみです。 たとえば Michael Shannon (マイケル・シャノン) が絶望の直前に歌う『Big Blue Sky』は、希望に満ちているように聞こえますが、実際には逃げ場のない真実への叫びなのです。ミュージカルは、私にとって「自己欺瞞の妄想」を表現する究極のジャンルです。
—次の作品も、ミュージカルやフィクションの手法を取り入れていかれるのでしょうか。最後に今後の展望を聞かせてください。
これまで私が取り組んできたドキュメンタリーの面白さは、被写体がカメラの前でどう見られたいかという願望と、実際の姿との間にあるギャップにあります。監督がそれを指摘すると被写体は自覚的になってしまい、途端にギャップが失われてしまうので、ドキュメンタリーの撮影現場は、ある意味で被写体の理想をつくる共犯者にならざるを得ず、非常に孤独です。一方でフィクションは、キャストやスタッフといった仲間と共に深く議論できました。 Tilda Swinton (ティルダ・スウィントン) が演出に異議を唱え、対立し、議論によってそれを乗り越えてまた一歩前進する。それは、幼少期に離婚した両親の確執によって、自分自身を見失いながら育った環境では得られなかった、完全に心を通わせたオープンなコミュニケーションでした。次の作品もフィクションを通じて、人間関係の深みを探求したいと考えています。
次の作品もフィクションを通じて、人間関係の深みを探求したいと語る Joshua Oppenheimer。彼がドキュメンタリーで培った嘘を暴く力は、ミュージカルという虚構の衣を纏いながら、鮮やかに私たちの胸を突く。歌のない静寂の中で、私たちは何を見つけられるだろうか。












