nobuhiko kitamura
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「HYSTERIC GLAMOUR 史上、今の若い子が一番センスいい」。孤立を引き受け、磁場をつくる北村信彦の流儀

nobuhiko kitamura

photography: shoichi aoki
interview & text: miwa goroku

Portraits/

HYSTERIC GLAMOUR (ヒステリックグラマー、以下ヒス) の「掘り返し」は、北村信彦いわく「7、8年前から始まっていた」。海外の若いアーティストたちが古着屋でブランドを見つけ、写真集やカルチャーの文脈へと掘り進め、やがて本人に会いに来る。近年はY2Kブームの再燃として語られがちだが、実際にはそれ以前から、静かな往復運動が起きていた。

興味深いのは、北村がその動きを外から眺めていたわけではないことだ。個人名義のSNSで若い世代に直接メッセージを送り、反応を確かめ、種をまく。ブランドの公式発信ではなく、一人のつくり手として応答する。その距離感は、創設当初から変わらない。

ロックを起点に、音楽や写真、アートと横断的に結びつきながら蓄積してきたヒスの層は、いまネット空間という新しい土壌で再接続されている。北村は「ブランドを業界に置きたくない」と語り、若いチームに制作を委ね、自身は外から見る立場を選ぶ。孤立を引き受けながら、結果として複数の世代と国を引き寄せる場をつくっている。

「ヒス史上、今の若い子が一番センスいい」。そう言い切る42年目の現在から、北村信彦の流儀を辿る。

「HYSTERIC GLAMOUR 史上、今の若い子が一番センスいい」。孤立を引き受け、磁場をつくる北村信彦の流儀

―先ほど渋谷の旗艦店を覗いたら、SNAKE LOOP (スネークループ) のデニムがたくさん置いてあって驚きました。私が20年以上前、学生時代にヘビロテしていたのとほぼ同じで。再び前面に出てきたのはなぜですか?

あれはね、若い子たちに掘り返されたというか。7、8年前から、特に海外のアーティストがうちの古着を紹介してくれることが増えてきて。Supreme (シュプリーム) とかの海外ブランドからも「このグラフィックを使いたい」とコラボの依頼が増えた。タイプライターのグラフィックとか、スカルのボーダー柄もそう。再発のリクエストが結構多い。

―最近、HYSTERIC GLAMOUR のヴィンテージ価値が上がっています。世間的には Y2K トレンドを追い風に再ブレイク、みたいな騒がれ方をしていますが、Y2K ブームのもっと手前から、北村さんはきっと何か仕込んでいたのでは?と思い、そこをまず伺いたいです。

コロナ禍に入る2年くらい前かな、海外ですごくセンスのいい子たちが出てきた。目についたのは、派手なカラーリングのヘアスタイル、タトゥーとか、ちょっとジャンクなアクセサリーとか。たぶんそういうところだったんだけど、こんな子たちがヒスの服を着てくれたらいいなと思って Instagram とか Pinterest でサーチしてたら「あれ?!うちの昔のタンクトップ着てるじゃん!」みたいなのが増えてきた。その矢先に、水原希子さん、酒井いぶきさんあたりが教えてくれたんですよ。彼女たちがヒスのヴィンテージを集めていて、周りの海外の友達も集め始めてるって。それで僕も種まきを始めた。「着てくれてありがとう」みたいな感じで、SNS経由で若い子たちにメッセージ送ったり、いいねしたり。

― ヒス公式から DM が来たら嬉しいですね。

いや、そこは個人で。Nobuhiko Kitamura のアカウントで。Pretty Sick (プリティ・シック) の Sabrina (サブリナ) と交流が始まったのもその頃で、ヒス40周年のイベントの時はバンドで出てくれた。そうこうしているうちに、今度は若い子たちのほうから僕のアカウントに来てくれることが増えてきた。

―それがコロナ禍あたり?

そうだね。で、コロナが終わったら、円安のおかげもあってか知らないけど、海外からいろんな人たちが日本に入ってきて、若い子たちも来れるようになった。そうすると、自分がヒスをやり始めてから一度も口にしたこともないような国の子までが「近々日本に行くんだけど会えませんか?」と連絡してくるようになった。

―そもそもその子たちはどうやってヒスを知ったんでしょう?

いや本当にそうで。「お前らなんでうちのこと知ったんだよ?」と聞いたら、最初は地元のヴィンテージ屋で古着を見つけたらしい。“HYSTERIC GLAMOUR”って何だろうと気になってたら、ちょうどその子の友達で写真が好きなやつが掘り出してきた森山大道の写真集にも“HYSTERIC GLAMOUR”と書いてあったと。「これはもう会いに行くしかない」と思って来ました、みたいな。パンクな格好した21歳の、知らない国の2人組が「今ブランドをやってるんだけど、どうしたらいいか教えてくれ」とか「なんで洋服屋なのに森山大道の写真集をつくったんだ?経緯を教えてくれ」とか聞きに来る。そういうのが多い。

―その子たちには、どんなアドバイスを?

「何でもいいから形になるものをつくれ」。だってさ、作品を見てくださいとか言うけど、それ全部データじゃん。今はいいかもしれないけど、30年後にそれ残ってんの?って。そしたら半年後「こんなのつくってみたので見てください」ってまた訪ねてきたのよ。パンクな印刷でタブロイドみたいな冊子になってて、かなりカッコよかった。「あ、あとこれは僕の国のウイスキーです」ってお土産も持ってきてくれたりして。ちょうど僕がヒスをやり始めたのと同じ年齢の子たちなんだよね。なんか、ここ20年の停滞期とは様子が変わってきたぞ、と思ったの。

―「ここ20年の停滞期」とは?

2000年頭までは良かった。でもファストファッションが台頭してきて、インディペンデントなお店は、洋服だけじゃなくてお茶を飲むところとかも少しずつ減っていった。2005年には自分たちの街から生まれるカルチャーがなくなった。新しい音といえばヒップホップ、K-POP が主流になって、ロックは時代遅れで古臭い。ちょっと悩むよね。自分はロック的な音楽のカルチャーが引き金になってヒスを始めたところがあるからなおさら。時代のことだから仕方ないんですけど。コロナの3年間は、しゃがんでないといけなかった。いろいろ考えさせられた。ぶっちゃけ全然面白くない。ファッション界は、ブランドを築いたデザイナーより、そのブランドを所有している株主の方が強い世の中になってきちゃってるし。

―でもその間に、知らないような国のヴィンテージ屋にまで、ヒスの服は流れ着いていた。

ヒスを始めた頃から、いずれ自分がつくったものが独り歩きして、掘られるような存在になったらいいなとは考えていたから、本当にありがたい。自分も若い頃は古着ばっかり買ってたから。なぜなら自分が好きなバンドの連中が、古着しか着てなかったから。

―40年でそうなれたのは、写真集シリーズの存在も大きいのかもしれません。

確かに海外は大きいね。 Patti Smith (パティ・スミス) が初対面の僕を信用してくれたのも、森山大道さんの写真集をつくっていたからだと思うし、Supreme のチームがコラボしたいと言ってくる背景には、Mark Lebon (マーク・ルボン) のダイアリーをうちが企画していたのを、当時間近で見ていたからだと思う。洋服屋もこういうことやっていいんだ、みたいな。

―それが90年代。

そう。みんな手ぶらじゃなかった。音楽、写真の人も巻き込んでチームをつくって、ブランド同士も助け合っていた。

― ヒスの HP 内にある INTERVIEW で、tokyovitamin (トーキョービタミン) のメンバーの方が、ヒスを裏原の象徴的ブランドだと言及なさっていました。でも実際、ヒスは裏原ブームよりも早いですし、厳密には違うと思うのですが、そういう視線をどう受け止めていますか?

なるほどね。僕的にはそこは勘違いされてもいい。違う国にいれば受け取り方も違うから。海外が90年代に見ていた日本といったら、メンズならやっぱり裏原の情報だったと思うよ。だってニューヨークでは STASH (スタッシュ) とか FUTURA (フューチュラ) が切磋琢磨していた時代でしょ。ちなみに今、ヒスを着て騒いでくれているのはどちらかというと女の子なんですよ。特に海外の女の子たちと、レディースも似合う男の子たち。

―なるほど。今の東京をどう見ていますか?

僕からしてみれば今の東京は、1975年のロンドン、1985年のニューヨーク状態。このまま進むとヤバいってこと。お金持ちだけが住めて、若い子が住めない街になっちゃう。そうなってほしくないから、これまで動きづらかったところを動かし始めているところ。若い子たちや、日本を第二の故郷だと思ってくれる海外の連中をマッシュアップして、僕も昔お世話になった日本のレジェンドたちとも結びつけたり。やっぱり若者がカルチャーをつくらなくちゃいけない。

― BOOTLEG (ブートレグ)、H.G.A.S. (アフタースクール) などのプロジェクトですね。若い世代を巻き込んだコンテンツが充実しています。

それがひとつ。誰と何をやりたいのかを吟味してくるのは若いスタッフで、ダメな場合はノーと言うし、責任は僕が取るけど、基本的に僕はノータッチ。40周年イベントの時も、同窓会で終わらせたくなかった。だから古くからの仲間たちには VIP ルームじゃなくて PTA ルームをつくった。ステージのバンドは僕が自分で選んだけど、フロアの DJ やパフォーマンスは若い連中に全部仕切らせた。ニューヨークから来た若い子たちにフォトパスを渡してスナップ撮らせたり。それが何百枚もあって、パラパラ見てたら誰もスマホ持ってないんだよ。ナビゲート次第では、今の若い子もうちらが10代の時と同じ騒ぎ方するんだなと。むしろ今の子たちの方が、情報が多いぶん、質がいい。

photographer ©ALLAN POTTER

―プロデュースするイベントも増えていますか?

去年、渋谷店で「恵比寿みるく」のイベントをやったんだけど、面白かった。もしまだ「恵比寿みるく」があったら30周年だからということで相談が来て、「昔の奴らが企画を立てるなら貸さない、若い子たちでやるなら」という条件にしたの。そしたらすごかった。500人くらい、どこの国かわからない見栄えのいい子たちもたくさん来て盛り上がった。で、やっぱり誰もスマホを手に持ってなかった。ヒスは今年42年目だけど、今うちに来てくれてる子たちが、ヒス史上一番センスいいね。

― HYSTERIC GLAMOUR のアイコンといえば、ガールグラフィック。1995年の “VIXEN GIRL” のポスターのクレジットによると、“Stephan Wolf” という人がデザインしてますよね。これが謎で、いろいろ調べても素性が出てこない。でも、先日ヒスの40周年本をめくっていたら、謎が解けました。本名は Stephan Jay-Rayon (ステファン・ジェイ=レーヨン) というアーティストなんですね。

Stephan は、うちが84年作った AI だから。

― AI ?

Stephan Jay-Rayon っていう AI があるの。

―え?!

だったら楽だなって。いや、ちゃんとした人だよ。

―笑。びっくりしました。

Stephan は今、イタリアにいるよ。ちょっと前まではずっとニューヨークに住んでた。

― Stephan とは今も仕事しているのですか? 最初の出会いは?

今も仕事してる。昔うちで働いていた子で、すごく重要なスタッフだったんだけど、どうしても海外に住みたいという夢があって、それでニューヨークに移住して、イーストヴィレッジに小さな店を出したのね。そこに Sonic Youth (ソニック・ユース) の Kim Gordon (キム・ゴードン) とか Iggy Pop (イギー・ポップ) とか、Stephan も通うようになった。そこからのつながりだね。ある日、Iggy Pop が突然うちにデニムを送ってきて「ヒスのデニムでこれと同じサイズをつくってほしい」と頼まれた。同じ頃に Stephan はモデルエージェントにスカウトされていて、モデルとして来日。HYSTERIC GLAMOUR 用に描いたっていうグラフィックを持ってきていて、うちで働きたいって言うから、音楽の話でも意気投合したし、じゃあ明日から来て、となって。結局 Stephan はモデルはやらず、うちで仕事してた。Sonic Youth が来日した時は撮影させてもらったんだけど、そのギャラを渡そうとしたら「ギャラはいらないから、代わりにツアーTシャツをデザインしてくれ」と言われて「ヒステリック コミックス」のグラフィックを一緒につくった。

―あ、戦隊の Tシャツですね。当時かなり欲しかったです。

そうそう。無敵艦隊。

Sonic Youth 「ヒステリック コミックス」 Tシャツ 『HYSTERIC SCRAP BOOK 1984-2024』 (2025)

― Richard Kern (リチャード・カーン) のコラボも痺れました。

Richard Kern は、THE deep (ディープ) ギャラリーの大類信さんの紹介だった。Rita Ackermann (リタ・アッカーマン) とか Russ Meyer (ラス・メイヤー) とか、ニューヨーク界隈の人脈。あの頃は、そういう人の縁が自然につながっていった。

―大類信さんとはよく一緒に仕事なさっていた?

仕事というか、俺がヒスをやり始めて間もない頃、さっきも話に出たニューヨークに行っちゃった子がまだ九州にいた頃かな、「ノブさんと絶対に気が合う人がいる」って言って連れて行かれたのが大類さんの事務所だった。Bettie Page (ベティ・ペイジ) とかのボンテージ本がたくさんあって、すげー!と思って、それから大類さんのところに通うようになった。大類さんがパリに引っ越すことになった時は、大類さんのコレクションを色々譲り受けた。リトグラフとか原画とか、まだ家に置いてある。

―大類さんは去年 KOMIYAMA TOKYO G で個展をやっていましたね。

やってたね。あそこに展示してあったものより、うちにあるのはもっと古いコレクションかも。

―北村さんのコレクション、すごそうです。

そんなでもないよ。自分にとってはそうだけど、他の人がどう思うかわかんない。

RAT HOLE GALLERY の時代と、写真集の文脈

― RAT HOLE GALLERY (ラットホールギャラリー、2008〜2020) がクローズして早5年。初期は森山大道さん、荒木経惟さんに代表されるレジェンドたちの写真展の企画があり、後半は欧米の作家の紹介が増えました。ビッグネームから日本初個展のアーティストまで。

RAT HOLE は、海外のギャラリストたちときっちり関係をつくってやっていた。だから Glenn Ligon (グレン・ライゴン) とか Roni Horn (ロニ・ホーン) とか、Tate Modern (テート・モダン) クラスのアーティストたちが、洋服屋のギャラリーでやってくれた。

―ちなみに「RAT」は「ART」のアナグラムですよね?

名前はそうなんだけど、特に現代アートで重要なのは、やっぱり空間。どこに飾るかということ。歴代アーティストたちとやってきた文脈があった上で、この空間だったらいいよとなる。モナリザはどこに飾ってあってもモナリザだけど、現代アートは違うから。たとえばオノ・ヨーコさんの作品で、台の上にリンゴを置いてるだけっていうのがある。それがもし今このプレスルームにあったら、ただのリンゴじゃん? そそる壁なのか、そそらない壁なのかっていうのはすごい重要。その大事な白い壁にネズミの穴が開いていたら話にならない。オープンした時は、本当にネズミの穴をつくってたんだよね。その穴の中には、ネズミの剥製も置いてあった。

―そうだったんですか。見かけた記憶がないです。

途中でやめた (笑)。Isa Genzken (イザ・ゲンツケン) っていうアーティストがうちでインスタレーションをやった時、どうしてもそれ (穴) が要らないって言われて、じゃあもう埋めようって。

―知らなかったです (笑)。ヒスは写真集もたくさん出しています。このインタビューを機に、改めてラインナップの体系を知りたいです。いわゆる「青大道」(Daido hysteric no.4 1993)、「赤大道」(Daido hysteric no.6 1994) は世界的に有名ですが、これもヒス本だったのかと個人的に驚いたのは、深瀬昌久さんの「BUKUBUKU」。2023年に東京都写真美術館のレトロスペクティブ展をきっかけに写真集を手に取ったら、HYSTERIC GLAMOUR の発行でした。

出した当初は、全然注目されてなかったんだよ。

 

―でも今は希少本で、価値は高騰しています。ヒスの写真集は、ナンバリングの仕方も謎めいています。まず1991年に「hysteric No.1 SPRING-SUMMER (綿谷修、奈良原一高、広川泰士 他)」が出て、2000年の「A Girl / hysteric 11 沢渡朔」まで続きますよね。その後、再び No.1 にリセットされている? 仕切り直しがありますよね?

ある。そこからサイズを小さくして、ハードカバーにしたの。

―なるほど。それがいわゆる「Hysteric」シリーズ(2001〜06)。これを16冊出した後、2008年の RAT HOLE GALLERY オープンに続く。

確かに最初の構想では、 RAT HOLE をフォトギャラリーにしていくつもりだった。なぜそうしなかったかというと、海外のヴィンテージの本屋のショーケースに、日本の作家がすでに入り始めていたから。2000年頭くらいにロンドン、パリ、ニューヨークを回った時、「青大道」を含むうちで出した写真集の何冊かが、60〜70年代の写真集と一緒に並んでいるのを実際に見たんだよね。結構いい値段もついてたし。それを思い出して「もう俺らがやる必要はないかも」と思った。あとは周りがサポートしてくれるでしょ。じゃあ次、俺らは何か違うことを勉強しようということで、コンテンポラリーアートの世界に没頭していった。

―ちなみにナンバリングがない写真集に関してはどうですか? Patti Smith、Dick Jewell (ディック・ジュエル)、Terry Richardson (テリー・リチャードソン)、荒木経惟さんなど。あと北村さんが撮った「サンタ・マリア・モーテル」の写真集もありますね。

ナンバーのない写真集は、どちらかといったら自分のプライベートの交流関係からつくった感じかな。ちなみに僕が撮った写真集は、うちから出してなくて、リトルモアさんです。

―理解しました。最近はどんなアーティストと仕事していますか?

コロナ明けくらいから、音楽系のつながりがまた増えてきた。2NE1 (トゥエニィワン) とか Billie Eilish (ビリー・アイリッシュ) とか。

ある日、Billie がステージの床に寝転がって、膝を立てて歌っている写真を見かけたんだけど、足元が左右柄違いのソックスで、片足うちのソックスだった。これまでいろんな人がうちの服を着てくれてきたけど、ソックス履いて「HYSTERIC GLAMOUR ♡」とか言ってくれたアーティストは Billie が初めて (笑)。しばらく後に Billie のスタイリストからツアー衣装の相談で連絡が来た時、すでにソックスを紹介してくれてるし、うちもなんか協力しようとなって。ちょうど企画していた春夏の Tシャツの1箇所を Billie の名前に置き換えたりしたやつを、何枚かプレゼントした。東京公演の時に着てくれてたし、最終的にはプレゼントしたもの全部、マイアミとか他の国でも着てくれた。世界中の10代の子たちから問い合わせが増えてすごかった。

―若い世代間のヒス熱は、古着発掘だけじゃなくて、新作からも拡散している。

「ママ、HYSTERIC GLAMOUR の服、持ってない?」と娘に聞かれたとかっていう話も、周りでよく聞く。すごい嬉しい。

「ブランドを業界に置きたくない」

―ちょっと時代を戻しますが、北村さんがヒスを始めたのは、DC 全盛期の頃ですよね。いわゆるパリを目指すコレクションサーキットに入る選択肢は、最初からなかったのですか?

当時、学校に通いながら、レコード欲しさにバイトを掛け持ちしてた。モード学園で一緒だった演出家の若槻善雄が就職した演出会社がそのひとつで、ショーの前打ち合わせからリハーサル、本番まで、3シーズンくらいかな、間近で見られた。楽屋裏の会話も聞こえてくるし、この人やっぱりすごいなっていうデザイナーがいた。でも「なんだこいつ?!」みたいな人もいっぱいいたんですよ。お金と時間の無駄遣いだと思った。ショーって1回はできるけど、2回、3回……となると、よっぽどの才能がないと続かない。俺はそれを追求するタイプでもない。自分が一生掘れるのはサブカルと音楽しかないと思って、そっちに行った。

―オゾンコミュニティも最初はバイト先だったんですよね。そこからヒスが生まれた。

元々小さいマンションメーカーだよ。当時、(若槻)善雄と同期で遊び友達だった一人が、オゾンコミュニティに就職したんですよ、営業として。その時、山口さんっていうデザイナーが、グラフィックとか絵を描ける人を探していて、それならノブがいると僕のことを出してくれたらしく、善雄経由で紹介されて。山口さんとは気が合った。「この生地でジャンパー考えてよ」とか「後ろにプリントする柄とかも考えて」とか言われて、それをデザインして持っていけば、1枚ごとに2、3千円もらえたんですよ。週に20枚ぐらい持っていけば、レコード買えたしライブに行く金にもなった。バイト2つ掛け持ちで、遊びながら一応は食べていけたから、就職せずにしばらくはこのままでいいなと思ってた。その時に、(オゾンコミュニティの) 代表の斎藤さんから「もうひとつブランドつくりたい。北村にやらせたら面白くなるんじゃない?」と声をかけられて。「じゃあやります」と始まったのが HYSTERIC GLAMOUR。そんな感じでアルバイトから始まって、僕的にはその延長なんですよ、今も。

―今なお。

そうだよ。だってバイトぐらいのスタンスのほうが文句も言えるし、イヤなら逃げられる。そうだね、続けることができたのは、逃げ場があったからかもしれない。これがもし自分で投資してつくったブランドだったら、今頃もうなくなってるかもしれない。わかんないけど。

― ヒスの20年後、50年後を考えたりしますか?

言い方が悪いかもしれないけど、ブランドを業界の中に置きたくはない。だから孤立します。たとえ弟みたいに思うやつが訪ねてきて、友達としてはなんとか力になりたいと思っても、ブランドとして NO だったらきっちり NO と言う。 あと、リタイアする時までにいいチームをつくりたい。チーフデザイナーはいらない。今のヒスには、社員歴15年〜30年以上のベテランもいるけど、レギュラーチームは20前後〜28歳。新人をフィールドに出して、ものをつくらせている。その代わり、外から厳しく見る。そういうのをここ2年くらいやっていたら、新しくうちに来る子たちもいい子が増えてきた。それでコロナ明けから始めたのが、さっきも話に出た「BOOTLEG」とか「H.G.A.S.」のプロジェクト。若い子が動ける土壌を今つくっておかないと、ここから先、さらに AI が入ってくるからね。僕はいつも怒鳴ってるけど、褒める時は褒めるよ。若い子だって悩みながら、前進している。それで思ったのが、俺も何かしらで同じ立場になろうかなと。それでギター始めたの、6ヶ月前から。

―ギター! 初めてですか?

中学の時に一度やろうとしたことがあるけど、全然できなくて挫折したままだった。この苦手意識のトラウマを、俺も若い子たちみたいに、同じ時間かけて頑張ってみようと思った。

―かっこいい。

で、とりあえず楽器屋に行ってみたら、高校生の女の子たちが先客でいて、エフェクターいじりながら「J Mascis (J・マスシス) っぽい」とか「こっちのほうが Kurt Cobain (カート・コバーン) っぽい」とか話していて。え?! 今の子そんな感じ?ってびっくりした。ディスクユニオンに寄ったら、やっぱり女の子たちがレコードを漁ってる。「これはいい流れ来てんぞ?」みたいな。昔、学校とバイトを往復しながら西新宿でレコードを探してた感覚が戻ってきたよね。

―確かに最近、弾き語りする若い女の子を SNS で見かけますね。

この間、すごく嬉しかったのは、90年代から付き合いのある Gimme Five (ギミーファイブ) の Michael Kopelman (マイケル・コッペルマン) が、娘から渡されたっていう買い物リストを持ってヒスの渋谷店に来てくれたこと。それだけでも嬉しいんだけど、もっと嬉しかったのが「あ、まだこういう店あるんだ」と思ったって。その時の店内には、おじいちゃんと孫みたいな買い物客がいて、キャピキャピ騒いでる高校生とか外国人もいて、賑わってたらしい。「いい加減リタイアしようと思ってたけど、またちょっとロンドン帰ってやり直すわ」って。

― UK ストリートの重鎮に、そんな元気とインスピレーションを与えたんですね。

俺はその時その場にいなかったんだよ。つまりショップスタッフのグルーヴが、そのムードをつくってくれていたわけで。うちは洋服屋だけど、いいバンドのライブで盛り上がって高揚するような感覚が生まれていたとしたら嬉しいよね。

―いい話です。北村さんは最近だとどんな音楽を聴いていますか?以前、67、68年あたりが特に好きだというコメントを見かけたことがあります。The Velvet Underground (ベルベット・アンダーグラウンド) がファーストアルバムを出した頃ですよね。
最近またその周辺を聴き始めてる。有名なバンドの名盤だけを改めてピックアップして聴くと面白いんだよ。69年の The Stooges  (ストゥージズ)、80年代の東京の Friction (フリクション)、90年代の Spacemen 3 (スペースメン3) とかが、意外とつながる。その時々にしか出せないテンションっていうのがあるんだけど、そこが共通しているということが、自分が弾く側になってわかるようになった。「この曲を弾きたい」じゃなくて「同じような音を出したい」から、エフェクターを調べ始めたり。そうすると洋服も、モッズとかパンクとかジャンルで線引きしてたものが取れてきて。

―ヒップホップもアリになった?

なった。俺はずっとロック的なところで勝負してきたから、ヒップホップが流行り始めた時、そっちに行けない自分はいた。でも20年経つと、逆にヒップホップの連中が「俺たちロックスター」って言い始めた。気がついたらヒップホップや K-POP のアーティストがうちに近づいてきてくれた。最近はアメリカのカントリーの新人アイドルとかも着てくれている。それでいいと思う。年齢も性別もジャンルも関係なく、好きなものは好きでいいじゃん。