Yukihiko Tsutsumi
Yukihiko Tsutsumi

映画はリズムで立ち上がる。堤幸彦、その直感が映画になるまで

Yukihiko Tsutsumi

photography: Kairi Hanawa
interview & text: Rei Sakai

Portraits/

クイズ番組、小説、再現ドラマ、密室ミステリー。多層的な構造を持つ『ミステリー・アリーナ』を、ひとつのエンターテインメントへと統合した“突破口”は、主演・唐沢寿明の「アフロ」というひと言だった。そこから立ち上がった70年代的なトーン、劇伴によって支えられる感情の流れ、そして撮影現場でリズムを確かめながら深めていく編集感覚。60本目の監督作を経てもなお、自らを“アマチュア”だと言い切る堤幸彦の、挑戦を止めない創作の原動力に迫る。

映画はリズムで立ち上がる。堤幸彦、その直感が映画になるまで

—映画『ミステリー・アリーナ』のオファーを受けた際の、率直な心境をお聞かせください。

プロデュースサイドで原作が選ばれ、映画化と配役がほぼ固まった段階でお声がけいただいたのですが、まず純粋に、魅力的でチャレンジングな企画だと感じました。今年で70歳になり、監督作も気がつけば今作で60本になる。あと何本撮れるか分からないからこそ、こういう挑みがいのある作品には、真正面から向き合いたいと思ったんです。

—作中作という多層的な構造が印象的ですが、映画化にあたっての糸口はすぐに見つかりましたか?

まあ、難しかったです。どこにポイントを置いたらいいのかが、最初はわからなくて。ミステリーは過去にテレビドラマも含めてたくさん撮ってきましたが、今回は映画的な大状況と、古典的な密室ミステリーをどう共存させていくかが大きな鍵でした。そのふたつを違和感なく一つの映画として成立させ、なおかつシームレスに見せていかなければならない。かなりわがままな企画だと思いましたが、そこにこそ突破口がありました。

—突破口が見つかった、具体的なきっかけを伺えますか。

主演の唐沢さんが「アフロを被ればいいんじゃない?」とおっしゃったことです。本当にすべてが一瞬にして見えました。70年代的なファンキーさを取り入れたバラエティ番組のトーンや、衣装のイメージ、ほかの登場人物たちのキャラクター設定まで含めて、どこへ向かうべきかが一気に定まりました。まさに奇跡の瞬間でしたね。あまりほかの映画では経験のないことです。

—唐沢さんとは『20世紀少年』以来の15年ぶりのタッグとなりますね。

唐沢さんには全幅の信頼を寄せています。彼は、いたずら好きといいますか、王道は堂々と王道でいく一方で、必ず既視感のないキャラクターに挑戦したい方でもある。『20世紀少年』という作品においては、アイディアを出し合うというより、いかに原作に忠実にやるかという、いわば原作原理主義的なところがありました。当時はそれが一番楽しかったし、それをどう一生懸命やるか、すごく真面目に二人で山を越えてきました。今回は、作品に対して役者が何を与えるべきかということを、「アフロ」で全部示していただいた。僕としてはありがたい限りですし、まさに役者魂だと思います。

—今回の映画を盛り上げた要素として、劇伴も大きな役割だったように思います。

いつも組んでいる音楽プロデューサーの茂木さん(茂木英興)が、脚本の段階から作家と組んで、さまざまなデモの音源を作ってくださいました。今回はなるべくハリウッド的な、大きな感情の流れを後押しする音楽にしようという方針だったのですが、色々と聴き比べながら、わかりやすく言えば“ワクワクドキドキするような”音楽を選んで進めていきました。最終的に不足なく、ぴったりハマったなと思います。

—堤監督の作品を象徴するあの独特のリズム感は、どのようなプロセスを経て生まれるのですか。

私の場合は撮影現場で仮の音楽を当てて、そのリズムに乗せて編集を進めていきます。セリフの間を調整するというよりも、ひとつの音楽を奏でるように作っていく感覚ですね。これが掴めないと永遠に終わりが見えないのですが、幸いにも監督作が60本目くらいになって、ようやく掴めるようになってきたかなと思います。

—今回も現場で編集を進められたのでしょうか。

そうですね。昔からこのスタイルはずっと続けています。予算に制限があると難しいのですが、現場では“現場編集”という人間に毎日作業してもらい、基本的に翌日に見て確認します。これには目的があって、僕自身の技術や映画の内容自体が、きちんと深まっているかを確かめる意味もありますし、プロデューサーの方に見てもらったり、俳優にも「こうなっていますよ」と共有したりと、いくつかのチェック機能を持たせています。最終的には、それが蓄積されることで何が足りないのかが浮かび上がってくる。撮影期間中であれば、その不足に対して手当てもできるので、そういう意味で続けていますね。

—そうした編集の感覚は、どのような経験の中で形作られてきたのでしょうか。

やはりMVの中から掴んできたことが多いですね。もっと言うと、とんねるずのコントや80年代の音楽ビデオ黎明期に培われたものでもあります。当時は、まだ音楽ビデオ自体が今ほど市民権を得ていなかった時代でした。ところが、「ベストヒット USA」のような番組が出てきて、アーティストの楽曲にはすべからく映像が付いている、まさにその始まりの時期だったんです。僕のところにもMVのオファーが回ってきて、それを見たテレビ局のプロデューサーが、「音楽ビデオのようなドラマを作りたい」と言って始まったのが『金田一少年の事件簿』だったりします。

—まさに、MVを制作してきたことや、秋元康さんと映像制作会社「SOLD OUT」を立ち上げ、数々のバラエティやドラマでタッグを組んできたこと、80年代後半に約1年間ニューヨークに滞在し、同地でオノ・ヨーコさん主演の短編『HOMELESS』(1991)を撮影したことは、堤監督のキャリアを振り返る上で、語らざるを得ない要素だと感じます。

あの頃はバブル期で、1ドルが70円台といまの半分以下でしたから、ニューヨークで普通に生活できましたし、かなり強気でいられたというのはありますね。当時はニューヨークに10万人ほど日本人がいて、経済的にもエンターテインメント的にも、いろいろなことに挑戦している流れがありました。その中での、小さな一つの動きだったと思います。
ただ、やっていく中で、言語も含めてアメリカのやり方とはどうしても相入れない部分があって、限界を感じたのも正直なところです。でも、そうやって“負け”を知るのは大事なことなので、いい経験にはなりましたね。いま振り返ると、反骨心というよりは、「意外とやれるんじゃないか」という軽い気持ちのほうが大きかったと思います。

—帰国後、その感覚が最初に結実した作品が『金田一少年の事件簿』だった。

数年のタイムラグはありますが、そうですね。当時は仕事の半分が音楽ビデオ、もう半分がバラエティやドラマという状況でした。ただ、専門学校で習うような、ドラマや映画は脚本ありきで、脚本に縦線を入れながら映像を構築していくやり方があまり好きではなくて(笑)。つまり、脚本のこのページのこの行から、次のページのこの行までをひとつの流れとして捉えて、その中を一台のカメラが自由自在にワークする。まさに音楽ビデオのやり方ですよね。1曲を丸ごと何度も撮って、それを編集で組み合わせていくような手法です。そのやり方をドラマに移植したというか、怖いもの知らずだったからこそできたんだと思います。学生時代に何か習ったわけでも、自分なりの方法論を持っていたわけでもないからこそ、できたことです。

—物怖じしない姿勢が、あの手法を成立させたのですね。当時の制作現場の反応はいかがでしたか?

ドラマや映画においては意外と重要な、「いかに短期間で撮れ高を多くするか」という経済的な側面にマッチしていました。ただ、手法を生み出したことで面白さや感動、あるいは後世に残るような作品性を獲得できるわけではなくて、あくまで技術的な話です。その先にある内容については、いまもまだ格闘しているというのが事実ではあります。お恥ずかしながら。

—方法論を模索される中で、監督がカメラを持つこともあったのでしょうか。

ありましたね。いまと違って当時のカメラはものすごく重かったので、なかなか機会は限られましたが、それでもすべて自分でコントロールしないと気持ち悪い、という感覚はあって。あまり人に任せるということはなかったですね。

—監督をそこまで突き動かす原動力が気になります。

ずっと、自分はアマチュアだと思っているんです。こんなこと言ったらふざけるなと言われそうですが、僕の中ではその感覚がずっとあります。たとえば、学生時代に8mmで自主映画を撮って賞をもらったとか、森田芳光さんの『ライブイン・茅ヶ崎』のような原点があるわけでもないですし、演劇の演出も経験があったわけではありません。もともとやっていたのは、情けないくらい下手なコピーバンドで、上京してからはテレビのADを劣悪な環境の中続けてきただけでした。もうこの業界は向いていないし、やめようかなと思った時期もありましたね。

—葛藤された時期だったのですね。

その時に一筋の光明になったのが、同い年でもあるサザンオールスターズのデビューや、テレビ番組の打ち合わせで出会った秋元康さんの存在でした。お二人に共通していたのは、いわゆる業界という大きな枠組みに対して、いたずらのように地雷の矢を仕掛けるような姿勢だったと思います。そういう方々がいるなら、この世界もまだ面白くできるかもしれない、と思って続けてきました。
ただ、申し上げたように明確な原点や土台があるわけでもなく、小津安二郎や黒澤明を語れるわけでもない。いまもなお、自分が目指すものを探しているというのが正直なところです。映画やテレビドラマ、舞台演出というのは「これが完成形だ」と言えてしまったら終わりだと思っているので、たぶん死ぬまでアマチュアのままでいるんだろうなと思います。

—表現の自由度が広がった現代において、テレビドラマと映画とでは、制作に臨む姿勢に違いはありますか。

テクニカル的なものは変わらないですね。ただ、テレビはいまだに“ゲーム性”のようなものがあると思っています。たとえば、その時間帯に視聴者がどういう状態にあるのか。同時間帯に他局で何が放送されているのか。限られた牌を取り合っている状況ではあるのですが、それでも話題作になると、かつて風呂屋が空になると言われたように、同時刻に現実が動くことがある。そこをどう作るかという意味で、他局の動向などはかなり分析しますね。

—その分析が、作品の構成に影響することはあるのでしょうか?

大きく変わることはありませんが、クライマックスをどこに置くかは、物語の流れではなく時間軸で考えます。たとえば、冒頭10分で人が死ななきゃいけないとか、43分以降はもう泣かなきゃいけないとか。ある種の“水戸黄門的な発想”が、視聴率の良い作品には傾向としてあるように感じますし、見やすさという意味でも有効だと思います。一方で、映画の場合は、そういった時間軸の設計はほとんど意識しません。いかに作品そのものと真摯に向き合うか、という姿勢が中心になります。技術というより、精神的な問題ですね。

—最後に、監督がまだ到達していないと感じる表現や、今後挑戦したい分野について教えてください。

社会性を持った作品には、ずっと挑戦したいと思っています。昭和の時代には大きな事件がいくつもありましたし、自分自身が見てきたリアルな世界があります。特に多感な時期だった70年代に自分が触れてきたものは、いまこそ描かなくてはならないという焦りもあります。同時に、それを語れる最後の世代に近づいてきているのかもしれない、という意識もあります。気がつけばだいぶ年寄りになってきて、ここで語らなければ、誰も見ていないものになってしまうかもしれない。そういう意味で、あの時代に自分が見てきたものは、何らかの形で作品として残していきたいと思っています。