Roe Ethridge
Roe Ethridge

「日常の中にあるポエトリー」写真家ロー・エスリッジの多層的な眼差し

Roe Ethridge

photography: Taka Mayumi

interview & text: Chikei Hara

Portraits/

商業写真とファインアートの境界を軽やかに飛び越え、日常の中に潜むポエトリーや消費社会の美学を浮き彫りにするアメリカの写真家、Roe Ethridge(ロー・エスリッジ)。その独自のスタンスは多くの作家に影響を与えており、ファッションマガジンやブランドでのコミッション、そしてホイットニー・ビエンナーレ(2008年)やMoMAでの企画展「New Photography 2010」、数々の写真集を通じて作品を知っている読者も多いだろう。 写真におけるイメージのヒエラルキーを解体し、自身の過去のイメージストックをインベントリー(目録)として並列に再接続する彼の手法は、複数の時間軸やプロップを渾然一体と編み上げることで、重層的だが軽快な性質を持つ移り気な画像の美学を描いている。一見無関係な断片が唐突なシークエンスの中で統合されることで、画像は新たな文脈と多義性を獲得していく実践は「シンセティック・フォトグラフィー(合成的写真)」と呼ばれ、現代写真史において確固たる評価を築いてきた。 今回、CHANEL (シャネル) が創刊した『Arts & Culture Magazine』Vol.1におけるコミッションワークを紹介する展覧会「FUGUE FOR 31 RUE CAMBON(カンボン通り31番地のフーガ)」(シャネル・ネクサス・ホールで4/18まで開催中)に合わせて来日した Roe に対面でインタビューを行った。モダニズムの転換期を生きた Gabrielle Chanel (ガブリエル・シャネル)の世界への共鳴から 「どこでもない場所だけど、どこにでもある」アメリカの郊外という自身のルーツ、そして彼自身の撮影スタイルまで、その根源的な意識を探求した。

「日常の中にあるポエトリー」写真家ロー・エスリッジの多層的な眼差し

これまでにも CHANEL の様々なコミッションに携わっていらっしゃいますが、改めて今回の展覧会「カンボン通り31番地のフーガ」における意図や被写体のセレクションについて詳しくお伺いしたいです。

この展示は、2025年に CHANEL が創刊した「Arts & Culture Magazine」Vol.1のためのコミッションとして制作したものです。これまで私が同ブランドと仕事をしてきた際は、特定の広告キャンペーンや、現代の CHANEL を表現するビジュアル作りが主でした。もちろん一人のコマーシャルフォトグラファーとして、CHANEL にまつわる作品は絶えず撮り続けてきました。というのも、ファッションの世界において CHANEL は私たちが吸う空気のように欠かせない一部だからです。

本作では Salvador Dalí  (サルバドール・ダリ) や Jean Cocteau (ジャン・コクトー)、そして Gabrielle Chanel 自身の痕跡といった歴史的遺産ともいえるアーカイブ、Roe さん自身の手付きや編集的な操作、軽やかなプロップとの対比によって組み上がっているように感じました。今回の制作はご自身にとってどのような体験でしたか?

一種の学びの機会でしたね。まるで CHANEL についての集中講義を受けるような制作プロセスを通じて、改めてその存在の強靭さを実感するとともに、20世紀のパリで創造的なアウトプットを行っていた主要な人物たちが、Gabrielle Chanel の世界を取り巻いていた事実を深く学ぶ機会になりました。彼女がいたのはモダニズムの只中であり、アバンギャルドやファッションと大衆的な美学が混ざり合う転換期だったと言えるでしょう。そういう要素を考えると、私が関心を持っている Andy Warhol (アンディ・ウォーホル) の先駆けというか、何かの始まりの原型を予測させるような存在だったのではないかと思います。彼女の世界がいかに広範な領域と接続し、ユビキタスであったかが理解できるはずです。それでいて、彼女が慎ましい出自から社交界の頂点へと上り詰めていくようなプロセスそのものが本当に素晴らしく、この作品制作に取り組む以前には全く知らなかった歴史の記憶に深く触れることができたと感じています。

—Roe さん自身のアーティストとしてのスタンスについてもお伺いします。MoMA での企画展「New Photography 2010」に参加された当時と現在とで、写真へのアプローチはどのように変わりましたか? また、時代の変化とともにあえて見せないことを選ぶようになったイメージはありますか?

間違いなく見せなくなってるものはありますね 。写真という営みにおいて私が常に興味を抱いてきたことの一つが、インベントリー(目録)という概念です。過去に撮ったイメージを単なるアーカイブとして過去の時間の中に閉じ込めておくのではなく、10年前、20年前に撮影した写真も、今撮ったばかりの写真も同じように取り出してきて、今日のプロジェクトにおいてイメージを並列に見せることを大事にしています。

過去と現在が等価に扱われることで、時間軸の境界がなくなるような感覚でしょうか?

ええ、私の中には複数の時間軸が存在していて、それは歴史的な時間や個人の歴史かもしれないし、あるいは今あなたと過ごしているこのたった5分間の出来事のことかもしれない。それらが渾然一体となって重なり合っていることを何と呼ぶかは自由ですが、こうした時間の境界がなくなる感覚は、昔からずっと私の中にありました。ストックフォトのように過去の写真を別の文脈で使い回す試みにはずっと興味があったんですが、私の場合そのストックにあたるのが自分自身の過去作であり、そこから自由に引っ張り出してきて再利用できるわけです。コマーシャルやファインアートとして撮った写真もあれば、プライベートなものもある。当時は完全なボツとしか思っていなかったような写真が、時間の経過とともに別の意味へと変容し、違う目線でいいと思えることもあるんです。制作のアプローチ自体が変わったというよりは、間違いなくさらに発展してきたと言うべきでしょうね。

2022年に発刊された写真集『American Polychronic (アメリカン・ポリクロニック)』のタイトルが示す多義性は、コマーシャルとファインアートという2つのレイヤーを行き来する Roe さんの姿勢を象徴する感覚を捉えています。例えば商業を流用した Andy Warhol や Richard Prince (リチャード・プリンス) と比較することもできますし、あるいはコマーシャルフォトの分野において、キュレーターの Charlotte Cotton (シャーロット・コットン) が紹介したような同時代の広告写真家たちとも比較できます。異なる美学を組み合わせて作品を構築するプロセスにおいて、他者とのコラボレーションはどのような意味を持っていますか?

「Polychronic(ポリクロニック)」という言葉は、文化的な時間の概念を指しています 。私にとって興味深かったのはPoly(複数の)とChronic(時間)という言葉が、私たちの知っている時間軸に対して語りかけてくるような性質を持っていたことです。なのであのタイトルは私にとって文字通りの意味として機能したのです。これまで私の活動はコマーシャルとアートの実践を曖昧にミックスしていると語られてきましたが、自分の中ではそこまで明確に境界線を引いているわけではなく、とにかく色々なものを合成することを探求しているのです。そこに自分なりの達成感や満足感を見出しています。すべてを前もって決定するのではなく、不確定要素を残しながら構成していくことで起きる化学反応を大事にしているんです。Miles Davis (マイルス・デイヴィス) の曲の中には彼自身が実際に演奏していない楽曲もあるように、そこから生まれる統合の可能性を通して起こる発見があるのです。私は音楽でいう指揮者にも作曲家にもなることはできますが、むしろ誰か他の人と一緒に作ったり、その人自身のスタイルとセッションするように演奏したいと思う人間なのです。そして『American Polychronic』においては、コロナ禍の中で1999年から2022年までの写真に立ち返る作業を行いました。なのでこの写真集は時間の迷宮に迷い込んだような類の感覚で作りました。

どのようにして、そうしたご自身のスタイルやコンセプトに行き着いたのでしょうか?インベントリーという手法を持つ以前の初期段階で、どのようにこれが自分のスタイルであると確信を持てたのでしょうか?

元々このスタイルを模索し始めたのは、美大にいた頃のことです。当時多くの学生たちが「アイデンティティというものがどのように私たちを形作り、他者からどう見られ、私たちが世界をどう知覚するのか」という問いに向き合っていました。そうした環境の中で、自分自身が何者なのかという問いを解きほぐしてみた時、私は郊外の中流階級というごく平凡な環境で典型的な人間として育ち、これといった特徴がないことを強く実感したんです。自分がいかにジェネリックな存在であるかを突きつけられ、その意味の根源や、それを象徴するイメージをどのように表象するかを考えるようになりました。アーティストは自分が持っているツールを使ってしか作品を作れません。なので自分の知っているもので勝負してみようと思ったのがきっかけで、アメリカ人なら誰もが知っている大手スーパー『J.C. Penney(J.C.ペニー)』の分厚いカタログを見て育ったことや、気に入ったページの隅を折り曲げて付箋をつけていた記憶を思い出したんです。

そうして「アメリカの郊外」というキーワードこそが私自身のドメインであり、ルーツなのだと強く感じました。どこでもない場所だけど、どこにでもある。親の世代とは少し異なり、ありふれたものが大量に遍在していることに強い関心を持ったのです。一見退屈なように見えて、よく観察すると写真の背後に物語的な側面が隠れていることがあります。

例えば笑顔一つを取っても、ただの笑顔として認識するのか、攻撃的な笑顔なのか、あるいは微笑んでいるけれどもその裏に影を示唆しているのか。関心の持ちようによって、捉え方は大きく変化しますよね。私の中で大事なのは日常の中にあるポエトリー、つまり私的な領域について思考することなんです。そこには平凡なもののポエジーがあり、それが私の中でポップアートやスティルライフ、そして商業的なイメージへと結びついていきました。でも同時にそれは、J.C.ペニーのようなアメリカ郊外のデパートのイメージや、クリスマスカタログを見て、子供が目を輝かせて何かを欲求する……そんなイメージが持つ巨大な力にも結びついていたのだと思います。

 

あなたが探求しているある種のアメリカ的な感性は作品の重要な側面をなしているように感じます。ところで、今共有していただいた価値観や生活史は、あなた自身のエステティクスの原体験と重なっていると言えますか? それとも別のところに、あなたの美的感性を形作った側面があるのでしょうか?

アメリカ南部の郊外で生まれ育ったという環境は、間違いなく私のモノの捉え方に影響を与えています。でも同時に、アマチュア写真家だった父の影響で、私がまだ子供だった70〜80年代頃にカメラに触れていた経験も大きいですね。初めてカメラを手にした時の、あの機械に触れる感触や、目の前のイメージを切り取ることができる感覚。言葉にすると少し抽象的になってしまいますが、純粋にそれが好きで、とにかく楽しかったことを覚えています。

—Roe さんの写真は視覚的な意味における新しさと同時に、とても楽しみながら撮られているように見えます。カメラを使って写真を撮ること、セットを組んで写真を撮ることの原点はどこにあるのでしょうか?

「一番最初に撮った写真は何か?」なんて、これまで誰にも聞かれたことがありませんでした。今思い返してみると、あるイメージがパッと浮かんだのですが、おそらくレンガが上に積み重ねられている様子を写した写真だったと思います。それは非常に美的で、とてもアブストラクトな仕上がりでした。シャッタースピードが遅すぎて、少し手ブレしていたことも覚えています。それが楽しむことと直接どう関係するのかは分かりませんが、若かった頃の私に周囲から認めてもらいたい気持ちがあり、自分の作品を真面目に受け取ってほしいとばかり思っていました。 私は元々アートの世界からコマーシャルフォトの業界に入った人間なので、商業的な撮影を数多くこなしていく中で難しさを感じたりストレスを抱えることもありました。でもある時点で、撮影の現場やプロセスそのものを楽しんだ方が、私自身にとっても一緒に働くチームの全員にとっても、ずっと良い結果を生むのだと気づいたんです。
ですから、あなたが感じた楽しそうという感覚は、実際に撮影しているセットの中に喜びやユーモアがあれば、それが自然とイメージを通して表れ出てくるものなのだと思います。ご指摘された点はまさにそういうことであり、それを作品から他者であるあなたが感じ取ってくれたという事実が、私にとっては非常に重要なのです。

普段写真を撮られる中で、絵的な美しさが目に留まる時と、状況的にすべて揃うことでシャッターを切る時があると思います。実際に作品を撮る時の価値判断の基準はどこにあるのでしょうか?

大きく分けて2つのパターンがあります。私にとって価値判断自体がとても複合的なものですが、一つは現場でセットを組んでいる時やカメラを覗いている時、直感的にこれが好きだと認識するパターンです。現場では状況が素早く動いていて、プレビューを見直す時間がない時もあって、その場合は決断を下してからスタジオに戻ることもあります。もう一つは例えば2018年に撮った時点では素晴らしいと思っていても、2026年に改めて見てみるとどう使うべきか分からなくなることもあります。全体を見渡し、決断を下すためには考えすぎないように選択していく感覚を持つ必要があるのです。ですから写真を選択するということは、直感的に気づく感覚と分析的に写真を眺めながら捉えていく感覚を組み合わせ、多層的なものを併存させることが重要なのです。また、コマーシャルの現場では関わっている多くの人の意見が合致する瞬間があって、その瞬間にポンと決まることもありますね。

最後に、現在のアメリカに住んでいる一人のアーティストとして、どのように写真を撮ることと向き合っているのでしょうか?今の社会状況は、Roe さんの価値観や制作、あるいは日々の感情にどのような影響を与えていますか?

今のアメリカには社会全体を覆うようなアンビエントなストレスと不安感があり、それがすべての物事に影響を与えている状態だと言えるでしょう。ある意味では、こうした緊張状態は過激な挑発や強い反応を引き起こすものでもあります。一人のアーティスト、そして写真家として考えると、写真というメディア自体は言葉を発するものではなく常に無言なんですよね。今はこうして私が言葉にして話していますが、時代の中で失われつつあるものをしっかりと掴んで離さないでいたいと感じているんです。愛国心とはまた別の次元で、たとえこのストレスや不安が容赦なく押し付けられてくる環境であったとしても、決して屈することなく自分自身を保ち続けることが重要です。

もちろん、私自身社会に対して強い怒りを感じています、でもその怒りだけを自分を突き動かす原動力にするのではなく、思考し、そして楽しむことこそが私にとっての一つの抵抗の形なのです。その姿勢を何よりも大事にしています。