Park Chan-wook
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不安定な時代を生きるということ。パク・チャヌクが描き出す、『しあわせな選択』のゆくえ

Park Chan-wook

photography: yudai kusano
interview & text: mayu sakazaki

Portraits/

バイオレンス、スリラー、ホラー、ミステリー、ロマンティック・ノワールなど、さまざまな語り口で「愛」を描いてきた映画監督、パク・チャヌク。新作の『しあわせな選択』は、失業をきっかけに「仕方なく」犯罪を企むようになる韓国の中年男性、マンス(イ・ビョンホン)が主人公のブラック・コメディだ。

紙を愛し、製紙工場で25年働いてきたマンスは、会社の買収にともなって突然リストラされる。そして、再就職に苦労しながらも、これまでの生き方を変えることができず、面接でライバルになるであろう男たちを排除することによって仕事を得ようと思いつく。マンスの幸せは自分の仕事とアイデンティティ、家族、そして生まれ育った家を維持すること──たとえ何に代えたとしても。

突き抜けたユーモアに大笑いできる映画でありながら、可笑しみのなかにある哀しみや怒り、恐怖と痛み、そして失われゆくものへの愛が描かれた、パク・チャヌクの集大成のような作品になっている。新作を引っさげての来日は約3年ぶりとなった監督は、まるで親しい友人たちの顔を思い浮かべるように、印象深いキャラクターやシーンについて語ってくれた。

不安定な時代を生きるということ。パク・チャヌクが描き出す、『しあわせな選択』のゆくえ

—原作であるドナルド・E・ウェストレイクの『斧』は25年前の作品ですが、映画ではそれを感じさせず、AIと労働の関係や男性性についてなど、現代的なテーマが多く入っていることに驚きました。監督がこの作品を「今」の物語にするために意識したことはありますか?

今の時代というのは、「体制を変えよう」とか「革命を起こそう」とか、そういうことができる可能性がだんだんなくなってきている時代だと思うんですね。もしこの映画の時代背景が1960年代から70年代くらいだったら、マンスも革命家になっていたかもしれないのですが、もう今はそういう時代ではないわけです。だからこそ、マンスは長年勤めた製紙会社に解雇されて、非常に悔しい思いを抱いているにもかかわらず、体制を変える努力をするどころか、自分と同じように哀れな人たちを攻撃するという、とても残忍な行動に出てしまう。力のない労働者が互いに傷つけあうという状況になるんです。

—彼らは資本主義、グローバル化、AI化などの社会システムによって仕事を奪われ、失業者になった人たちです。これは、どんな仕事をしている人も他人事ではないですね。

そうですね。映画の中で描かれているように、雇用が不安定な状況というのが今はありますから、AIの物語を入れないわけにはいかなかったです。ラストシーンを撮るときは、SF作品を撮るような心境で臨んだんですよ。例えば、製紙工場にロボットのようなものが登場しますが、実際の工場にはまだあのような機械はないんですね。あれはVFXでつくったものなんです。そして、エンドロールで木を伐採しているシーンがあったと思うのですが、あれは私が撮ったわけではなく、もともとあった映像を借りてきて、そこにVFXを施して仕上げています。劇中でマンスは「解雇というのは斧で首を切られるようなものだ」というふうに言っているんですけど、あの伐採のシーンというのは、その言葉を視覚化したイメージになっています。マンスの言葉を映像で表現するならば、こうやって木を切るようなイメージになるだろうと。今挙げたふたつのシーンは、どちらも現代における心配事が含まれていると言えますね。まるで『ターミネーター』のように、終末論のような、黙示録のような感じで未来を描くんだという、そういう気持ちでつくったシーンでした。

—マンスはもちろんですが、ヨム・ヘランさんが演じたボムモの妻・アラのキャラクターがとても魅力的ですね。「失業が問題ではなく、それにどう対処するかが問題だ」という台詞は最高でした。このアラというキャラクターはどのように生まれたのでしょう?

アラは原作には存在しないキャラクターで、映画オリジナルのものなんです。そもそも、『しあわせな選択』はマンスの再就職のプロセスを描いた映画ではあるんですけど、それ以上に家族の物語にしたいという気持ちが強かったんですね。そして、そのためにはマンスの妻であるミリを非常に重要な人物として描こうと考えていました。そして、その次に大事なのがマンスのターゲットになる相手です。彼らは言うなればマンスの分身のような人たちで、観客はおそらく「マンスと共通点がある」と感じてくれるだろうと思いました。その一人がボムモです。ボムモがマンスの分身であるならば、ボムモの妻であるアラは、マンスの妻であるミリの分身とも言えるんですね。そして、マンスはボムモをターゲットにするなかで、ボムモとアラの夫婦喧嘩も見るし、仲睦まじい姿も見るし、アラの浮気現場まで見てしまいますよね(笑)。このボムモ夫妻を観察するにつれて、マンスは自分の妻であるミリのことを思い出し、自分自身を客観視するという流れができあがる。そういうことを描いていくなかで、アラという人物がどんどん大きくなっていったのです。

—まさに、マンスがターゲットにするライバルたちは、まるで彼そのものに見えます。自分自身を客観的に見ることができたはずなのに、それでも間違った方向に進んでしまう。新しいことをするくらいなら人を殺すほうがいい、というほどに生き方を変えられない姿は理解しがたくもありますが(笑)、不思議とリアリティがありました。それぞれの夫婦に共通するのは、妻であるミリとアラが夫と違ってとても現実的で、柔軟であることですね。

そうですね。まったく違う人物でありながら、似たようなところがあるんです。彼女たちはいずれも夫が失業したことについては仕方ないと受け入れていて、「じゃあこれから生きる道を探さなければいけない」というふうに考える人たちでした。アラが言ったように、失業そのものではなく、そこにどう対処するかに重点を置くという、非常に賢明な考え方で(笑)。先ほどアラはミリの分身だと言いましたが、それだけではなくて、非常に独立した人物であり、とても強いキャラクターなんです。彼女はオーディションに毎回落ちてしまうような三流俳優ではあるのですが、最後の最後に本領を発揮して、刑事たちの前で世界最高の名演を見せて彼らを納得させてしまう。あのシーンで、アラは一世一代の演技を披露していましたね。

—この映画は夫婦の物語とも言えますね。終盤、ミリとマンスは一分間だけ抱きしめあいますが、カウンダウン方式で数えるミリに対して、マンスは「カウントアップして」と言う。ふたりの認識が決定的に違っていることが伝わってくる、重要なシーンのように感じました。

マンスはあんなふうに悪事を働いたというのに、まだ希望を持っているんですよね。今はちょっと悪いことをしているけれども、これが終われば、きちんと再就職ができれば、また正しい人間として家族と仲良く生きていけると思っている。数字をカウントアップしながら、これからは第二の人生であり、どんどん上にあがっていけるというふうに考えているんですね。一方でミリは、夫の悪事に気がついていて、見抜いているので、これからどんどん落ちていくだろうという感覚がある。悪夢の未来がやってきて、この先は耐える時間になるんだと。まさに、両者ともまったく違う姿勢があるというのが、あのシーンには表れていると思います。

—同じシーンで、ミリが「そんなに一生懸命生きなくてもいいのに」とマンスに言いますね。この台詞も、すごく象徴的に響いてきました。言葉の裏にさまざまな思いがある。

「そんなに一生懸命生きなくてもいいのに」という台詞には、彼女自身の後悔が含まれているんじゃないかなと思います。自分の過去を振り返ったとき、やっぱり人間ですから、何らかの後悔がつきまとう。そういう気持ちも込めてああいうことを言ったんじゃないでしょうか。男性というのは「仕事がすべて」と考えてしまうところがあります。自分のアイデンティティとは、仕事上にあるものだと思い込んでしまうんですね。なので、仕事を失うということは、自分自身を失うことであり、そこには何も残らないというふうに考える。マンスもそういう男であることをミリは知っているので、夫の人生や生き方に対する言及でもありました。

—そういった男女の視点の違いを描いていた前作の『別れる決心』など、多くの映画を共作してきた脚本家のチョン・ソギョンさんは、この作品には参加されていませんね。

そうですね。彼女は、テレビシリーズを書くのに忙しかったんです。

—この映画の原題は『어쩔수가없다』、英題は『No Other Choice』で、どうしようもない、仕方ない、という意味ですね。資本主義社会の中で、限られた生き方しかないと思わされていたり、どこか諦めているような響きもあって、時代のムードが凝縮されているようです。

「仕方ない」というのは、それなりに上手くテーマを表しているタイトルだと思います。映画を観た観客がこのタイトルに対して、「本当に仕方ないのだろうか?」と疑問を持ってくれるんじゃないかと考えました。いや、本当はそうじゃないんじゃないか、という問いかけが生まれてきたのではないかと思います。考えてみると、「仕方ない」という言葉は、私たちが何かを選択するときに常に言い訳のように使える、とても便利な言葉でもありますよね。独り言のようにつぶやくこともあれば、批判や反論にも使えます。つまり、何か身勝手なこと、不道徳なことをしたときに、「仕方ない」と言えば弁解することができる。多くの人が口癖のように使う言葉でありながら、見方によっては卑怯な言葉とも言えるんじゃないでしょうか。

—邦題では『しあわせな選択』というタイトルがついています。けれど、マンスが男らしく競争に勝ったとして、それが本当に幸せなのかと考えてしまいます。家族との関係は変わり、機械に囲まれて、背後からは闇が迫ってくる。幸せとは何か、という普遍的な問いを持つ作品でもあると思うのですが、パク・チャヌク監督はこの邦題についてどう感じていますか?

そうですね。日本の『しあわせな選択』というタイトルも原題と同じように、観客が「これは本当に幸せな結末なのだろうか」と疑問を持ってもらえるタイトルだと思います。ラストシーンで製紙工場に戻ったマンスが歓声をあげるんですけれども、彼の姿を見ている限りでは、幸せそうには見えなくて、無理やりそう振る舞っているように見えるんですね。そして、笑っていたはずなのに、その笑いもやがて消えて、マンスが自分でつけた電気を、AIが不必要と判断して消していく。そういうシーンがあるからこそ、原題と邦題それぞれのタイトルが持っている逆説性というものを、日本のみなさんにも感じてもらえると思います。