Christian Marclay
Christian Marclay

「聴くことは、最もプライベートな活動である」クリスチャン・マークレーが描く音の二次元

Christian Marclay

photography: nils junji edstrom
interview & text: moodman

Portraits/

ターンテーブル奏者/作曲家として活躍する一方、音を題材としたビジュアルアートで視覚と聴覚の境界を揺さぶってきた現代美術家 Christian Marclay (クリスチャン・マークレー)。銀座・ギャラリー小柳での個展に合わせて来日した彼に、新作『LISTENING』に込めた「聴く」ことへの思考と、ジャンルを横断し続ける表現の現在地を聞いた。

「聴くことは、最もプライベートな活動である」クリスチャン・マークレーが描く音の二次元

―今回の個展のタイトルは「LISTENING (聴くこと)」です。この極めてシンプルなテーマを今、あえて掲げた理由から教えてください。

まず、今の時代は「誰も聴いていない」と感じるからです。私たちはもっとお互いに注意を払うべきではないでしょうか。誰もが自分の世界、つまり携帯電話や画面の中に閉じこもってしまい、対話が失われているように思うのです。私にとって「聴くこと」が興味深いのは、それが極めてプライベートな活動だからです。「見ること」とは違い、私が何を「聴いている」のかは、他者には分かりません。何かを「見ていること」は外側からも見て取れますが、「聞く」あるいは「聴く」という行為が何にフォーカスされているのかを判断するのは非常に困難です。Marcel Duchamp(マルセル・デュシャン)が残したメモに、「見る(という行為)を注視することはできるが、聞く(という行為)を聴取することはできない」*という言葉があります。
*”On peut regarder voir, on ne peut pas entendre entendre.”(英訳:One can look at seeing, one cannot listen to hearing.)

私が「聴くこと」について話すとき、それはすべて視覚的な表現を介しています。私は常に、視覚と聴覚の差異、そしてその感覚を交錯させることに強い関心を持ってきました。例えば、作品で用いる「オノマトペ(擬音語)」は言葉であり音でもありますが、同時にイメージ(図像)でもあります。日本の漫画において、音がグラフィックの中に統合されている様子は非常に興味深い。音とグラフィックの交錯(Confusio)、つまり「音を二次元としていかに表現するか」の一例と言えます。

『Christian Marclay: Scrolls』ギャラリー小柳(東京)展覧会カタログ (2011年)

—あなたの作品には聴覚と視覚の両方のアプローチがありますが、もともとはどちらから活動を始めたのでしょうか。

出発点は視覚芸術でした。美術学校に通い、アートを学んでいました。音楽やパフォーマンスに興味を持ったのは70年代、学生の頃です。Vito Acconci (ヴィト・アコンチ) や Laurie Anderson (ローリー・アンダーソン)、Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス) などのパフォーマンス・アートに惹かれ、ジャンルのクロスオーバーやミクスチャーに関心を持ちました。最初のバンド The Bachelors, Even (ザ・バチェラーズ、イーブン) を始めたのも美術学生の時です。私の原点は、視覚的なものへの関心にあります。今は音楽よりもアートの活動を多く行っています。音楽をやりすぎたせいで耳の状態があまり良くないので(笑)、今は耳を守ろうとしています。そのため、現在はアコースティックなものか、あるいは「音楽」という言葉で括られるような、概念的な活動に留めています。

—最近は、音楽活動にターンテーブルを使用されていませんね。

ターンテーブルは引退させましたが、代わりに「ファウンド・オブジェクト」を使っています。私は何も持たず手ぶらで街へ行き、そこで音を出せそうなオブジェクトを見つけ出すのです。日本では札幌(2017年)や小田原(2021年)でも行いました。

—オブジェクトを探すことから始まるのですね。

ええ、私はその場の環境に反応するのが好きです。数日間その土地に滞在し、さまざまな場所を見て回ります。札幌ではリサイクル工場やリサイクルショップ、サルベーション・アーミーのような場所にも行きました。この手法の最初のプロジェクトは2012年の別府で、大友良英さんと一緒でした。当時はロンドンに住んでいたのですが、ターンテーブルとレコードをすべて持ち込むのが困難だったため、何も持たずに現地へ向かいました。それは本当に挑戦であり、大きなリスクでした。「演奏しなければならないのに楽器を忘れてしまった……」という、緊張から見る悪夢のような感覚でしたね。

—「ファウンド・オブジェクト」のプロジェクトやアコースティックな手法へ移行したのは、レコードを表現に使うのをやめた時期と重なるのでしょうか。

ええ、レコードを楽器として使うのは10年以上前にやめました。でも最近、またジャケットを目当てにレコードを買い込んでいます。今回の展示にも、3枚のジャケットを使った《OCULI》という作品があります。今回、東京に到着したのは日曜日でしたが、月曜日にはさっそく disk union (ディスクユニオン) の新宿店へ行きました(笑)。そこでたくさん買い込んだんです。

—「レコード」が持つ意味合いも、時代を経て変わったのではないでしょうか。

私が活動を始めた頃、アメリカにはレコードが溢れていて、25セントほどで買える非常に安いものでした。もちろん当時からコレクターにとっての貴重品はありましたが、興味深いのは、すべてが今、リイシュー(再発)されている点です。今の若い世代は、単なるデジタルデータではなく、手に触れられる具体的な「モノ」を求めている。レコードが持つ三次元的な質感が、若い世代を惹きつけているのだと思います。あくまで私の推測ですが、売上データを見れば、レコードが歴史上かつてないほど伸びているのは事実です。だからこそ、私はまたレコードに戻っています。それを求めている聴き手がいると感じますし、私自身もまた、その存在に惹かれているのです。私のレコードはすべてニューヨークの倉庫に預けたままで、もう15年以上も見ていません。彼らが恋しいですが、運ぶには重すぎますし、今住んでいるロンドンに持ち込むには広いスペースも必要ですからね。

—パフォーマンスではかなりエキスペリメンタルなレコードの使い方をされていましたが、状態の方は……。

パフォーマンス用のレコードは別にしています。時には、破壊的な表現に使われるものもありますから(笑)。

—新作の《Concentric Listening》や《Eccentric Listening》を拝見し、1994年の『Live Improvisations』のジャケット・デザインを想起しました。30年以上の時を経て、このコラージュの構成に込めた意味を教えてください。

「耳」への関心は、私がずっと持ち続けてきたテーマです。耳は「聴くこと」や「聞こえること」の象徴ですから。90年代に制作したあのCDジャケット(『Live Improvisations』)のことは、実は今回のシリーズを始めたときには忘れていました。後になって「ああ、これには見覚えがある」と気づいたのです。当時はジャケットが必要だと言われ、急ぎでこのコラージュを作ったことを思い出しました。あなたが気づいてくれたのは嬉しいですね。

今回のインタビューワーを務めた MOODMAN 私物の『Live Improvisations』(1994年)

—当時は「演奏者の心境」を描いていると感じましたが、今回はむしろ「聴き手の体験」を表現しているように感じました。

顔の中心を取り除く、つまりアイデンティティを消し去って、耳や外側の輪郭だけを残す。まるで、殻のように。そうすることで、鑑賞者であるあなた、あるいは会話の参加者としてのあなたが、その空白を埋めることになるのです。あなたが発した言葉は聞かれ、残響を生みます。それは他者の存在と共鳴しあうのです。水面に小石を投げ入れたときに広がる波紋が大きくなっていくようなイメージです。切り取り、コラージュするという行為は、何かを取り除くと同時に、特定のディテール(詳細)を残すことでもあります。

—DUB のように、音の空間的な広がりも感じました。

レイヤーですね。ええ、音楽にもそのようなプロセスがあります。そして、この作品では実際にそのレイヤーを目にすることができます。私は鑑賞者にそのプロセスを理解してほしいと思っていますし、その重なりがはっきりと見える状態にしておきたい。音楽と似てはいますが、意識的に音楽のようにしようとしているわけではありません。

―新作《Oculi》では、これまでとは異なり、ジャケットを切り抜かずに重ねていますね。

この作品について言えば、手法が少し異なります。私は何も切り抜いてはいません。12インチのジャケットに別の12インチを重ねるだけです。たいていはダンスシングルのジャケットを使います。色が面白いうえに、非常にもろい内袋とは違った質感があるからです。これはジャケット同士の「偶然の出会い」のようなもので、重ねてみて、中心に見えるものが気に入れば完成です。だから、レコードを買いに行くと店員には変な目で見られますよ(笑)。

—作為を削ぎ落とした、よりダイレクトな作業ですね。

ええ、あれこれと手を加えたり切り刻んだりする煩わしさはありません。上手くいくか、いかないか、それだけです。私は、あまり多くの美学的な選択をせずに済む状態が好きなんです。アイデアを組み合わせてみて、機能するかどうか。唯一の編集作業は、何を選ぶかという「選択」の中にのみ存在します。

—あなたの作品には、常に一種のユーモアが漂っています。

どうでしょう、私自身は面白い人間だとは思いませんが(笑)。ただ、ユーモアを通じて人々の心に触れることは好きです。ユーモアがあれば、たとえ深刻なテーマであっても、人々は身構えることなく作品を受け入れてくれますから。例えば《Body Mix》シリーズは非常にユーモラスでしたが、同時に「デザイナーがいかに音楽をパッケージ化しているか」を提示しています。彼らはしばしば、関心を惹きつけるための手段として「身体」や「性」を利用します。欲望を通じて音楽を売り込もうとしている構図を浮き彫りにしたかったのです。

—コラージュの際、そのアルバムの「音」も重視しますか?

もし内容を知っていれば、頭の中で音楽のミックスを想像することもありますが、作品を成立させているのはあくまで「ビジュアル」です。視覚が先行します。ジャケットに写っている脚と、別の上半身がうまく合う必要があります。黒い背景を背負ったクラシックの指揮者の形式に注目した作品もあります。指揮者はすべてをコントロールしている。彼の背後には、観客がいる暗い空間が広がっています。彼は楽しんでいるようにも見えますが、時々、独裁者のようにも見える。お見せしましょう……この作品です。

『Christian Marclay』ポンピドゥ・センター(パリ)展覧会カタログ、JRP/Editions (2022年)

レコードジャケットのデザイン過程で、こうしたパターンが現れることに驚かされます。例えばこの作品では、匿名のモデルたちが音楽を売り込んでいます。セクシーな男女が登場していますが、彼らは音楽とは何の接点もありません。私はジャケットのビジュアルから、こうしたよりダークな要素を表面に引き出すことに興味があるのですが、実際に目にするとどこか滑稽で面白いですよね。

『Christian Marclay』ポンピドゥ・センター(パリ)展覧会カタログ、JRP/Editions (2022年)

—《OCULI》はどのように制作されたのでしょうか。

まずレコードスリーブの円形の穴から、誰かがこちらを覗き込んでいるような「目」に着目しました。次に、人物が目を閉じている状態の作品を作りました。人は深く聴き入るとき、自然と目を閉じるものだからです。私はこれを「リスニング・トリオ」と呼んでいます。ジャケットの大部分を隠し、ディテールだけを見せる。それは、目を閉じるときに余計な情報を「編集」して削ぎ落とす行為に似ています。写真は常にフレームで切り取られており、その枠の外で何が起きているかを私たちは知ることができません。そこには常にフラストレーションが伴います。写真家の役割とは、コラージュと同じく「切り取り、選択すること」です。

—音がフェードイン・フェードアウトしているような感覚も受けました。

彼らが目を閉じているから、そう感じたのかもしれません。しかし、私はそうは思いません(笑)。なぜなら、私はフェードという手法が好きではないからです(笑)。どちらかと言えば、映画のような「ジャンプカット」の方が好きですね。フェードさせるのは不自然だといつも感じていました。人生はもっと、バイオレント(急進的)なものです。

クリスチャン・マークレー《Oculi (Listening Trio)》(2026年)
©︎ Christian Marclay / Courtesy of Gallery Koyanagi

—最近は「グラフィック・スコア」の制作にも力を入れているそうですね。

ええ、他者が解釈して演奏できるような楽譜を作っています。今は特にそれに力を入れています。他にも、スイスの古い水力発電所で行われたプロジェクト《CONDUITE FORCEE》のようなパフォーマンスも行っています。巨大なパイプの中にゴルフボールや鉄球を投げ入れ、その音を録音しました。

—天然のフランジャー効果が生まれたという作品ですね。

そうです。エフェクトは一切使わず、長いトンネルが自然に生み出した響きです。現場へ行くまで何をするか決めていませんでしたが、あの巨大なパイプを見た瞬間にアイデアが湧きました。こうした土地固有の音の体験は、私の活動において非常に重要です。

同じく今回のインタビューワーを務めた MOODMAN 私物の名作『Record Without A Cover』(1999年)、『More Encores』(1997年)『CONDUITE FORCEE』(2026年)

—日本を初めて訪れてから40年になりますが、日本の文化からはどのような影響を受けましたか?

特に漫画には大きな影響を受けました。ストーリーを読むわけではありませんが、そのグラフィックが大好きなんです。特にオノマトペ(擬音語)がデザインの中に統合されている様子は、他に類を見ない素晴らしい創造性だと感じます。日本の伝統的な巻物や掛け軸の技法、和紙や古い着物の生地を使い、漫画のオノマトペを再構成して楽譜を作ることもあります。私は日本語が読めないので、それらを純粋に視覚的な構成要素として扱っています。20メートルに及ぶ巻物の楽譜を、ヴォーカリストたちが解釈して演奏するのです。

―東京の音環境についてはどう感じますか?

非常に賑やかですね。ただ、日本の特徴は「録音された声」に溢れている点です。今何階にいるのか、どちらに進めばいいのかを教えてくれる「声」。地下鉄でも、常に指示が出されていますよね。トイレでさえも、水の音や鳥のさえずりが流れていたりする。本当に奇妙な環境です。ここに住んでいると、この異様さを忘れてしまうのでしょうが。今回の旅でも、羽田空港に到着したときにそうした「声」を耳にしました。私にとって、それはとても抽象的なものでした。彼女たちが何を言っているのか分からないからです。時差ボケも手伝って、それはまるで夢の中にいるようで、「ああ、日本に来られて嬉しい」と心地よく響きました。今朝もそうです。地下鉄に乗る際、カードをかざすと「ピピッ」という音が鳴り、その後にカッコウの鳴き声が聞こえて……本当にシュールな体験でした(笑)。