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言葉の前にある感覚を写す ——写真家・遠藤文香が岡本かの子から受け取った、生命の気配

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photography: Kazuki Iwabuchi
Interview: Chikei Hara

Portraits/

自然と人間の関係性や、雄大な自然の中に存在する気配を捉え続けてきた写真家・遠藤文香。2026年5月に彼女の最新作となる写真集として、岡本かの子の小説『鮨』と遠藤文香の写真を一冊の中で拮抗させた『Ayaka Endo: Kanoko』と、岩手県遠野で遊牧された馬との出会いを写し出した『Pneuma』が同時刊行された。

造本家・町口覚との協働により生まれた『Ayaka Endo: Kanoko』は日本の近現代文学と写真が重なり合うことで生命への尊厳を浮かび上がらせる一冊になっている。小説家、歌人、仏教研究家、そして岡本太郎の母として知られる岡本かの子が晩年に執筆し、魚や自然、刹那的な美が描かれた小説『鮨』に、透明で崇高なイメージが対比するように合わさった本作の制作背景について話を聞いた。

言葉の前にある感覚を写す ——写真家・遠藤文香が岡本かの子から受け取った、生命の気配

—今回のシリーズは、これまでの遠藤さんの制作とは少し異なり、共作的な側面を強く受けました。そもそも、どのようなきっかけで始まったのでしょうか

『Ayaka Endo: Kanoko』は造本家の町口覚さんと共に制作しました。町口さんは2014年から小説と写真を1冊の中で拮抗させる「文学シリーズ」を手掛けられていて、これまでに例えば森山大道さんと太宰治、野村佐紀子さんと坂口安吾さん、といった組み合わせで制作されてきました。そして約一年前に町口さんからこのシリーズの8年ぶり、6冊目になる新作を一緒に作らないかとお声がけいただいたのが始まりです。町口さん、そしてデザイナーの清水さんだけでなく、岡本かの子という大きな存在を常に側に感じながら制作していたので、私ひとりの作品だとは思っていません。

この小説の舞台が東京の下町なので、制作を始めるにあたり現在ロンドンに拠点を置いていることは不安要素でしたが、町口さんからは「写真を小説の挿絵にしたいわけでも東京で撮ってほしいという訳でもなく、この小説を読んで遠藤文香がどう感じたかを見たい。」と伝えられていました。

ロンドンに戻ってから、まずは『鮨』以外の小説をはじめ、瀬戸内晴美さんによって書かれた岡本かの子の伝記小説『かの子撩乱』、岡本太郎や夫・岡本一平がかの子について書いた本など、関連書籍を何冊も読みながら、同時に撮影に臨みました。岡本かの子について知っていくにつれて、特に『かの子繚乱』を読み終えたころには、すっかり彼女の虜になり、魅了されていました。同じ女性として、表現者として、どこか救われる部分があったのだと思います。

—これまでも遠藤さんは、自然の動植物や海、家畜などを被写体とされてきましたが、それらを撮り始めたきっかけは何だったのでしょうか?またそうした対象に惹かれてきた感覚は、岡本かの子とどのように重なり合ったのでしょうか。

幼少期から自然と戯れるのが好きだったし、その瞬間は自分のことを忘れられるから救いでもありました。対象に入り込んだり、時間を忘れさせてくれる存在が自然や動物たちでした。岡本かの子の文章を読んでいると、人間だけではなく魚や植物、石や水にまでいのちの気配を感じ取っていることが伝わってきます。その眼差しにはとても共感する部分がありました。

『鮨』を最初に読んだときに印象深かったのは、家畜や動物、食べるものとしての命に対する感覚が変化したことでした。これまで私は自然や家畜、動物を多く撮影してきましたが、家畜を撮影したり、動物の肉を食べる時、同時に罪悪感が拭えなかったりして、搾取している人間としての視点が常に頭の片隅にありました。しかし、作中には他者の生命を身体に取り込んで、新たな生命へといのちが繋がれていくという、とても原始的で、命を『食べる』ことの根源的ともいえる純粋な美しさが、官能や緊張感とともに描かれています。『鮨』が書かれた1930年代には、現代のような大規模な工業畜産が一般化する前だったというのもあるのかもしれません。一見、命を食べることの美しさは当たり前のようでもありますが、なぜか私にとってはとても新鮮に感じられ、世界の見え方が少しだけ変わったような気がしました。岡本かの子に世界を押し広げてもらいながら、制作を通してたくさん影響を受けましたね。

—今回の写真集では、どのように写真を選んでいったのでしょうか。魚や泡、水、氷のような透明なモチーフも印象的です。

この小説では、海からやってきた魚が母によって鮨として握られ、少年の身体へと取り込まれ、美しく逞しい生命へと循環していきます。主人公の湊 (みなと) は、幼い頃は極度の潔癖で神経質な少年で、動物を身体に取り込むことや、食べ物の味や色、香りにさえ嫌悪感を抱いて痩せ細っていましたが、母の愛を通して克服していきます。

海はすべての生命の起源であり、生み出すものの象徴として母性的な存在でもあるのと同時に、ときに荒々しくすべてを飲み込みながら、満ちたり引いたりを繰り返す。そこにかの子自身の姿も重なっていきました。山奥の渓谷で湧いた水が川になり、大河へと広がり、海になって雨や雪になるような。これは岡本かの子が表現しようとしていたこととも重なりますが、生命の象徴として、この地球を大きく循環するさまざまな形の水のモチーフを多く選んでいます。

—遠藤さんの写真には、被写体への手触りや温度を感じる一方で、対象とのあいだにある、近いようで遠い距離も印象的です。そうした距離感について、ご自身ではどのように捉えていますか。

写真を撮るうえで私にとって質感は重要な要素だと思っているので、手触りのある写真を撮りたいと常に思っています。ただ、被写体に惹かれてどれだけ近づこうとしても、対象と距離がないと写真は撮影できません。写真には親密さもありますが、同時に決して重なりきれない距離も必然的に残ってしまう。その近さと遠さみたいな相反する距離を同時に感じながら撮影している気がします。

—今回の本づくりでは、写真を選ぶ段階や編集にかなり時間をかけたと伺いました。これまでの制作とはどのような点が違っていたのでしょうか。

もちろん写真の編集とセレクトにもかなりの時間を費やしましたが、撮影し終えた後に、これほどじっくりと写真と向き合い、時間をかけたことはありませんでした。写真を渡したあと、事務所に行って初めて写真が本の形になったマケットをみた時は、感動と安堵が入り混じり思わず泣いてしまい、自分でもびっくりしました。デザイナーの清水さんも一緒になって泣いていました (笑)。

そこから本の編集段階では何度も何度も事務所に通って、デザイナーと「ああでもない、こうでもない」と時にぶつかりながら、たくさんのダミーブックを作り最終的なレイアウトを決定していきました。間をあけながらですが、1年間誰かとともにじっくり制作すること自体初めてでしたし、かの子含め、一緒に取り組んだ人たちの存在はとても大きかったです。一人で作るときとは全く違い、岡本かの子という存在に向き合いながら作品をつくることは、想像以上に背筋が伸びるような責任や緊張感がありました。

—岡本かの子という人物に、どのような強さを感じましたか?

岡本かの子は現代を生きる私ですら感化されるほど、その時代の女性という枠組みに一切収まりきらない存在でした。過剰な感情を抱えながら、化け物じみた強さや凄まじさがある一方で、泣き虫で、繊細で、深い孤独を抱えた人でもあった。でも、かの子こはその感情を抑圧したり、恥ずかしいものとして押し込めたりはせず、全部引き受けながら時に爆発させ、解放していく。境界線を引くのではなく、自分も他者も世界も、全て大きく受け入れてしまう。そうゆう彼女の在り方に、自分自身の弱さや恥ずかしい部分を肯定されるような感覚がありました。まるで海が満ちたり引いたりするように溢れ出る感情は、なんだか自然現象のようにすら感じられ、その感情を宇宙的なスケールへと接続していくところも含めて、かの子はやっぱり巨大で、いのちのエネルギーに溢れる強い女性なんだと思います。

—遠藤さんの写真は、自然観やアミニズムといった言葉で語られることもありますが、それだけでは捉えきれない感覚もあるように思います。明確な信仰というより、そこにあるものの気配や存在に触れるような感覚は、撮影や編集のなかでどのように現れるのでしょうか。

自然の中に何か精神性のようなものを感じながら制作しているのは確かですが、それは明確な信仰にたどり着く前の、人類が太古から抱いてきた、まだ言葉になる前の根源的な感覚に近いのかもしれません。人はどうして風景や自然に心を動かされたり惹かれたりするんだろう、とか、なぜそこに気配や存在を感じるのか、とか。私は写真を撮ることで、そうした感覚や瞬間に触れようとしているのかもしれません。だから私にとって撮影は、何かを見たり記録したりする行為というよりも、写真を通してその瞬間に立ち会うことに近いのだと思います。編集作業では、撮影時に立ち上がっていたその感覚を残すことと引き出すことを大切にしていますかね。

—遠藤さんにとって、なぜ写真という表現がもっともしっくりくるのでしょうか。

写真を撮ることによって自分と対象との境界がゆるんでいくような感覚が私にとってとても大事なんですよね。ちゃんと自分の身体と感覚を使ってる感じがする。写真を撮ることは移動する大きな理由になるし、改めて何度も世界と出会い直させてくれる。意味を固定する前の、まず身体で感じた曖昧で捉えきれない感覚をそのまま写せるというところも、写真のいいところだと思います。