「いまいる場所だけが世界ではない」。西川美和が子どもたちに託したもの
miwa nishikawa
photography: Takuroh Toyama
interview & text: Hiroaki Nagahata
戦争を知らない世代に、戦争をどう手渡すことができるのか。西川美和監督の最新作『わたしの知らない子どもたち』が描くのは、終戦直後の日本を生き抜いた戦争孤児たちの姿だ。過酷な現実を見つめながらも、映画の中心にあるのは、子どもたちのたくましい生命力と、彼らが街を駆け抜ける冒険譚としての躍動感。重い題材を「子どもにも見せられる映画」として開くため、西川監督は何を考え、どのように戦後の風景を組み立てていったのか。長年にわたるリサーチから、主人公・琴子の設定、社会からこぼれ落ちた人々の「居場所」、そして前作『すばらしき世界』から続く関心までを聞いた。
「いまいる場所だけが世界ではない」。西川美和が子どもたちに託したもの
Film
―個人的に西川監督の作品をずっと追いかけていて、企画が立ち上がった段階で想像していたものと、完成した映画にはかなり意外な差がありました。特に、戦争孤児という題材を、これほどエンターテインメント性のある劇映画として描かれたことです。構想の段階では、どのようなトーンを考えていたのでしょうか。
「子どもに観せられる映画」を目標にしました。まず、戦争孤児をモチーフにした映画をやりたいと思ったんです。「なぜ戦争というテーマそのものに正面から向き合おうとしたんですか」とよく聞かれるんですけど、戦争を描くことが先にあったわけではなくて。戦争孤児たちが、あれほど苦しい境遇に置かれながら、仲間同士で手を取り合い、めちゃくちゃな方法でも生きようとした。その物語を考えたときに、すごくワクワクしたんです。
この題材を扱いたいと思ったのが、2020年のコロナ禍でした。当時は私たちの生活にも強い閉塞感がありましたよね。マスク生活がいつまで続くのかわからない。アクリル板を挟まなければ人と喋れない状況が、何年先まで続くのかも読めなかった。だったら過去を題材にすれば、この先どんな世界になっても描くものは変わらない。戦争孤児の話をきちんと映画にしてみようと思ったんです。
ただ、戦争孤児を描く以上、「あの戦争とは何だったのか」ということにも向き合わざるを得ない。そこで、私がこれまでの映画ではできなかった、子どもにも観せられて、ちゃんと楽しい描写もある映画を目指しました。逆に、実際に観る前はどんな映画を想像されていたんですか?
―もっとドキュメンタリー的な、リアリズムに寄った作品を想像していました。西川監督は広島のご出身ですし、戦争という大きなテーマに対して、「いつかやらなければいけない」という意識が直接反映された作品になるのかな、と。だから、子どもたちの冒険譚とも呼べるエンターテインメント性が前面に出ていることは意外でした。
むしろ、そこを押し出したいんです、本当に。戦争ものに真面目に向き合うのって、作り手もそうですけど、観客もつらいじゃないですか。必要なことだとは頭ではわかっていても、休日に観に行きたいかといえば、なかなか腰が重い。その気持ちは私もよくわかるんです。だから、そこを越えられる映画にしないと、戦争そのものがますます“遠く”なってしまう。「知らなきゃいけないけれど、手が伸びない」というジレンマをどう解決するか。それを考え続けた6年間だったので、今おっしゃったように見えているなら、私としてはすごく成功だと思います。ぜひ、そちらの面を PR していただきたいです。
―制作にあたって相当なリサーチをされたと思います。私が調べた限りでは、梯久美子さんの『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』も資料の一つだったそうですね。あの本は、本作のベースの一つになったのでしょうか。
数多く読んだ本の一つです。その中で大きなヒントになったのが、『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』に登場する、ピアニストの舘野泉さんのエピソードでした。私たちは戦後というと、カルチャーも何もなく、貧しく色彩のない世界だったと思い込みがちですよね。でも、戦争が激しくなる以前には、さまざまな西洋文化が日本に入ってきていて、文化や芸術も豊かだったし、食べるものや着るものにも色彩があった。
舘野さんは、たまたま家やご家族が無事だったことで、才能あるピアニストとして、その後、世界へ羽ばたいていけた。でも本当に紙一重で、文化や芸術、普通の暮らしから完全に遮断されてしまった子どもたちもいたはずです。だから映画の冒頭では、舘野さんが戦後の昭和21年にコンクールで弾いた曲を主人公が弾く。本のエピソードをお借りしたという経緯がありました。
―ほかには、どのような資料を参考にされたのでしょうか。
絶版になっている本も多かったですけど、当時の新聞や雑誌記事など、手に入る資料はできるだけ集めました。当時の孤児たちが施設で残した日記に、子どもたちの言葉や暮らし方のヒントがあったり。何をどこから引っ張ってきたのか思い出せないくらい、最初の3〜4年は資料ばかり読んでいたと思います。
―子どもたちだけでなく、戦後を生きる大人たちをどう描くかも、この映画では重要だったように感じました。
映画の中心にあるのは、子どもたちの「生きるエネルギー」です。ただ、彼らをその状況に置いたのは当時の大人たちでもある。その人たちが戦中と戦後をどう生き、何を思ったのかを描くことも、この映画のテーマでした。子どもたちのエネルギーやレジリエンス (困難から立ち直る力) と、それに釣り合う大人たちの後悔。その二つを描きたいと思っていました。
「なぜ戦争が起きたのか」「なぜ戦争に巻き込まれていったのか」「戦争は社会や人に何をもたらすのか」は、さまざまな局面から語ることができるし、責任の所在についても、それぞれ意見があると思います。戦争を孤児のような非常に弱い立場から見つめれば、どうしても被害者の視点になる。でも、子どもたちをその状況に追いやったのは、政府や軍のトップだけではない。時代の流れに否応なく巻き込まれた大人たち、一般庶民や女性も含めた、「弱く、力がなく、何もできなかった庶民」にも、何らかの責任の一端や、加担者としての側面はあったと思うんです。
私たちだって、いつ大きな力や時代の流れに飲み込まれ、加担する側に回り、大きな加害を生んでしまうかわからない。だから戦争を描くとき、その時代を生きた大人たちが、いま映画を観ている私たちとどれだけ近い存在に見えるか。そこを大切にしたかったんです。
―今のお話につながるセリフで、印象に残ったものがあります。劇中に「きっとこの国はこの先もろくなことが起きないよ。子どもはよく寝かせて、よく食わさないと、バチが当たるんだよ」という言葉が出てきます。あの言葉はどこから生まれたのでしょうか。
あれは完全に私の創作です。その後の時代を知っている私からの、ある意味では“ずるい”セリフだと思いながら書きました。その時代を生きていた人が、本当にそんな予言をしたかどうかはわからない。でも、子どもや弱い存在を切り捨てながら前を向こうとした部分はあったと思うんです。
戦前の人たちはもちろん、憲法が変わった後も、「なぜそこに人権や平和という言葉が記されているのか」を自分たちで十分に考えず、どこか受け身のまま流してきてしまった。その結果、子どもや女性が大切にされない社会が、その後も作られてしまった。そうした地盤の弱さが脈々と続いているという実感がありました。だから、未来を知っている私が想像で書いたセリフではあるんです。
―主人公の琴子が、女性であることを自ら隠して生きる設定も印象的でした。これは早い段階からあったのでしょうか。
そうですね。比較的早い段階からありました。戦争孤児というと、どうしても男の子のイメージが強い。でも当然、女の子も同じように焼け出されていたはずです。彼女たちはどうやって生きていたんだろうと思って調べていくと、親戚に引き取られても籍にすら入れてもらえず、お手伝いさんのようなことをさせられていたとか、女の子ならではのつらい実体験が出てくる。
地下道で過ごしたという証言もありますし、そうした場所には性的暴力の危険もある。男の子か女の子かわからない格好をしていたとか、施設に連れていかれ、服を脱がせて初めて女の子だとわかったという記述もありました。満州に残された人たちについても、ソ連軍が侵攻してきたとき、身を守るために女性が髪を切っていたという話があります。
なので、今回の設定についても、特定のモデルがいるわけでも、一人の証言をもとにしたわけでもありません。ただ、女の子が自分の性別をわからなくすることで身を守ることは、大いにあり得たんだろうと。私自身も女性ですし、今回は女性を主人公にして書いてみようと思いました。
―後半、田中裕子さんが演じるけいさんが、琴子に「いつまでもそんな暮らしじゃいられないよ」と伝えます。物語の大きな転換点ですが、なぜあの言葉を彼女に言わせたのでしょうか。
そもそも琴子は、性自認の問題から男性として振る舞っていたわけではありません。女性であることを外見から隠すのは、あくまで身を守るための手段だった。暴力や犯罪の中に、揉まれてゆくのが本当に彼女らしい生き方なのかは、別の問題だと思いながら書いていました。このまま生きていった先には、身体の成長や変化もある。男の子たちと同じ生き方をずっと続けることには限界があるだろうなと。物語を書いている私自身が「この先、彼女はどうするんだろう」と感じ始めたところで、けいさんがあのセリフを言ってくれた。それによって次の展開へ進めた、という感覚でした。
―そこには「居場所」というテーマも関わっていますか?
そうですね。「何が彼らに居場所を与えたのか」は、この作品の一つの視点だと思います。国は何も助けてくれない。むしろ閉じ込めたり、視界から追いやったりするだけで、本当に温かい居場所を作ってはくれない。もちろん、個人の篤志家が孤児院を作ることはあったけれど、それにも限界があり、到底追いつかない。
そんな中で居場所を与えたのが、いわゆる暴力団の人たち。使い走りにする代わりに仲間に入れ、食べ物を与える。街娼の女性たちが優しくしてくれたり、靴磨きをいい値段でさせてくれたり。一番弱い人たちの居場所を作ったのが、社会の周縁にいる人たちだったんです。そのことを資料から知るほど、暗い気持ちになったりもしたんですが……。
そういう意味では、主人公にとっての居場所が、ああいう暗がりの場所で子どもたち同士で暮らすことだったというのは、幸福なような、不幸なような、なんとも言えないことだと思うんです。ただやっぱり、教育や文化、芸術に触れる機会が失われれば失われるほど、「自分たちの居場所はここしかない」と思い込んでしまうことがある。学校に行くことがすべてではないけれど、自分が不得手なものや、見知らぬ領域にも触れることで、「いまいる場所だけが世界ではない」と知ることができるじゃないですか。物語の終盤、琴子は仲間たちの中に安住するのではなく、外の世界へ飛び出していく。それが彼女にとって第二の出発になると思ったから、あの展開にしたんだなと、いま話しながら思い出しました。
―前作の『すばらしき世界』でも、裏社会に生きる人々と社会との関係が描かれていました。作品のトーンもテーマも異なりますが、2作に地続きの感覚はあったのでしょうか。
そうですね。『すばらしき世界』を作っていなければ、このモチーフには出会えていなかったと思います。社会の構造や仕組みが改善されて、誰にとっても住みやすい世界になることが理想なのかもしれない。でも、人間はそれほど単純ではなくて、用意されたクリーンな受け皿を心地よいと感じる人ばかりではないんですよね。そこからどうしてもあぶれていく人間に、私は個人的にすごく親和性を感じてしまう。理想的できれいな受け皿ではない場所でしか生きられない人たちを書くことが、私の一つの癖というか、業のようなものなのかなと思っています。だから、本当に2作で1つというか、『すばらしき世界』の次の作品だからこそできた映画ではないかなと思います。
―あらためて、本作は素直にめちゃくちゃ面白かったです。子どもたちの長い旅を描く、スケールの大きな作品でもありますよね。
そうなんです。いろんな場所を移動し続けるので、お金もかかりました (笑)。
―そして最後には、それぞれの決断がある。その終わり方も、とても印象に残りました。
そう言っていただけると救われます。本当にみんなで頑張って撮りました。
















