アマチュアであり続けるということ。マーク・ボスウィックと鈴木親が語る、写真の無邪気さ
Mark Borthwick
photography: chikashi suzuki
text: tomoko ogawa
1990年代のファッション・フォトに大きな影響を与えたロンドン出身の Mark Borthwick (マーク・ボスウィック)。ISSEY MIYAKE GINZA (イッセイ ミヤケ ギンザ) の展示空間「CUBE」にて開催された特別展「Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything」のために来日した彼にインタビューを実施。1998年1月、渋谷パルコギャラリーで開催された写真展「SYNTHETIC VOICES」以来の友人であり、今回、ポートレート撮影を担当したフォトグラファー鈴木親とともに、モノクロのインスタントフィルム Pola Pan (ポラ・パン) で撮影した初期アーカイブによる写真集『Out of Date: Pola Pan 1984–1996』(Rizzoli International Publications) で初めて過去を振り返った経験について語る。
アマチュアであり続けるということ。マーク・ボスウィックと鈴木親が語る、写真の無邪気さ
Photography
—ご自身の初期アーカイブから厳選した作品を収録した写真集『Out of Date: Pola Pan 1984-1996』を制作するにあたり、当時の作品や日記を振り返るという体験はいかがでしたか?
Mark Borthwick (以下、Borthwick): 過去を振り返るというのは、面白い考え方だと思います。僕は今まで過去に戻ろうと思ったことは一度もなくて、いつも前に進んできたんです。そういう目的には興味がなかった。だから今回が、本当に初めて時間をかけて過去を振り返った経験でした。1984年から1996年という自分の人生のある章に、好奇心を持って、注意深く時間をかけて向き合った、という感じです。それを経て思ったのは、あの頃の自分と今の自分は、そんなに違わないということでした。ここ数年、また撮影をたくさんするようになったんだけど、その「再び撮り始めた撮り方」の中に、今回のプロジェクトと重なるところがたくさんあると気づいたんです。最近 Valentino (ヴァレンティノ) とやった大きなプロジェクトも、その最初の一歩が、実は30年前に踏み出されていたものだとわかって、それが今どう発展したかを見ることができた。こういう考えにすごく魅了されるんです。思わず笑顔になったり、もっと好奇心が湧いたり、ある種の無邪気さを感じたりします。それと、これははっきり言っておきたいんだけど、僕は昔も今も、「自分は写真家だ」と自分を位置づけてはいません。今でも、写真家という意識はないんです。
鈴木親 (以下、鈴木): 「自分はアマチュアだ」と話してくれましたよね。作品を観て、自分も、写真を学び始めた頃を思い出しました。アマチュアであることこそが、力になるのかもしれない。誰にでもできることだから。
Borthwick: 誰もが写真家になれる時代であることは、本当に素敵だと思う。誰もがそのためのツールを持っていて、自分の人生を記録していて、それぞれ違うやり方、表現のスタイルを持っている。ただ、自分にとって、これは職業じゃないということ。僕は写真のプロだったことは一度もないし、プロにはなれなかったと思う。だって、自分が何をやっているのか、わかっていたことなんて一度もなかったから。僕は、わからないことの中で生きてきたし、何をやっているかわからないという状態の中でこそ、力を発揮してきたから。
photography: Yuta Kataoka
—では、写真という表現は、あなたにとってどういうものなのでしょうか?
Borthwick: 写真は、自分が物事をどう見ているかを記録するために使っている道具です。若い頃から今もそうだけど、ずっと趣味みたいなものです。写真は今も僕に大きな喜びを与えてくれるし、立ち止まって、新しい目で人生を見る機会をくれる。でも、毎日やることではないんです。僕自身、これまで撮ってきた写真の量に驚かされています。というのも、写真にちゃんと向き合う時間を取ってこなかったので。それを今回、初めてやったんだけど。その都度、僕は学んでいるし、その経験が好きなんです。人生は学ぶことだと思う。それは僕らが毎日与えられているギフトだから。ツールとしての写真は、自分がどう見ているかを伝え、メッセージを共有するための、本当に素晴らしい手段なんです。だから、この本には僕にとってたくさんのメッセージが詰まっている。自分がどんな人間になりつつあったか、どう促されて違う視点、違う目で物事を見るようになったか。そういうことをたくさん物語っています。それに、この本は一つのジャンルに定まっていない。ルポルタージュ的な部分もあれば、ファッション的な部分もあり、家族の写真もたくさんあって、人生そのものがたくさん詰まっている。自分だけでなく他の人にも、自分がどこから来たのかを見てもらえるよう、余白を残すようにしました。例えば、ダンスの写真にどれだけページを割いたか。我ながら興味深いと思う。しかも、これはたった一日だけの撮影なんです。でも、とても貴重で、特別な一日だった。Chloë Sevigny (クロエ・セヴィニー) と Rita Ackermann (リタ・アッカーマン) と Mary Frey (メアリー・フレイ) がビーチにいる写真も同じで、ある日の午後、一回だけの撮影です。
鈴木: これを撮った後に生まれた人も、当時、雑誌に載っていたものを見た人も、その特別な一日を共有できるということも写真の良さですよね。
—Pola Pan というフィルムには一回性や偶然性がありますよね。このフィルムはご自身の創作や写真との向き合い方に、どのような影響を与えたのでしょうか。
Borthwick: Pola Panという、ポラロイドの35mmのインスタントフィルムについて話すのは素敵なことだと思う。いつまであったのか正確にはわからないけど、80年代前半から90年代半ばくらいまであった気がします。このフィルムを、僕はすぐに好きになりました。うまくいかないことや、フィルム自体の脆さもあったけど、そこが良かったんです。
鈴木: 当時は、今みたいにデジタルはなくて、作家系のフォトグラファーが雑誌で撮影する場合はネガが主流だったので、Mark の写真の質感は異質でした。Pola Pan の脆さがそれまでのしっかりとライティングされた大判のプロフェッショナル感とは全くの逆の質感であることも、次の世代に影響を与えたと思います。
Borthwick: 僕は創作を通して、視覚的な情報を通して意味を作っていくという、その言語のようなものにすごく惹かれるんです。どう目を向けるか、どう物事を見るか、どう捉えて、どう取り込んで、どう共有するか。当時は何もかもがすごく瞬間的で、速かった。それは若いときならではのことでもあると思う。僕はあまり考えないタイプなんですね。考える人間じゃなくて、やる人間 (笑)。だから、物事は勝手に、それ自体の意志で起こっていく感じで、そこにマジックが生まれる。僕はずっと、写真というツールは、自分が何をしているかわかっていないときほど、この上なく無邪気なものだと感じてきました。
—例えば、周りから認められたり、褒められたりすることについては、どう捉えていたんですか?
Borthwick: どう言えばいいかな……誰にでもエゴはあるから、僕らがやることすべてを突き動かしているのはエゴだとも言える。でも、これはエゴの話じゃないんです。僕の中には、物事に執着しない部分が少しあって、だから「これは自分のものだ」という所有意識を主張したくないんだと思う。特に「あなたは特別なものを作った」とか「あなたがこれをやったんだ」みたいに言われたときには「いや、違う違う!」と思ってしまう。だって、誰もがそれぞれの人生の中で、何か特別なものを作っているから。僕らはみんな特別なんです。もちろん、誰かが褒めてくれるのは素敵なことだし、それをちゃんと受け取れるようになろうと学んでいる途中で、少しずつ上手くなってきてはいる。でも同時に、避けてしまうところもある。そもそも褒められることを意図してやっていたわけじゃないから。野心もなかったし、計画もなかった。僕はまったく野心的じゃないし、競争心もあまりないんです。週末にも京都で「競争心」について話したけれど、Chikashi も野心的じゃないよね。
鈴木:90年代の終わりの『Purple (パープル)』や『Self Service (セルフ・サービス)』は、服が写ってなくても写真が良ければいいといった、みんなが良いと思うものでなくてもいいという風潮があったから、新しい表現も生まれやすかったですよね。成功したいとかそういう感覚もなくやっていたというか。良い意味でいい加減なところもあったし。Mark と週末に一緒に行った京都は、大きい成功よりも日々続けていくことを目的に楽しんでいる人たちがいて、「そういうところに惹かれるね」という話をしていたんですよね。
Borthwick: 僕は子どもの頃、テニスをプロとしてやっていた時期があって、ツアーも回っていたんだけど、それもただ楽しんでやっていただけでした。単純に、すごく好きだったんです。写真も同じで、特にファッション写真はそう。真剣に受け止めすぎちゃいけないものだから。
鈴木: 楽しまなくちゃいけない。
photography: Yuta Kataoka
Borthwick: そう、楽しまなきゃ。正直に言うと、僕が始めた頃はメイクアップアーティストで、そこから写真に移ったんです。80年代後半、写真はどんどんビジネス化していって、僕はその様子を目の当たりにしていた。そして、そのビジネスの側面には「生命」がないな、と感じていたんです。だから、楽しもう、それに、ちょっとふざけてやろう、と。僕は道化になってもいい、そうしたいと思っている。そもそも、自分自身を真剣に受け止めることができないタイプだから。だからこそ、アマチュアでいる感覚、趣味として育ててきた場所である感覚のほうが、ずっとワクワクするんです。それは、毎朝新しい目で目覚めるということだし、ピュアな場所に触れ続けるということだから。
鈴木: あなたはいつも美しいものを生み出していますよね。時にはただの子どものように、時には10代の若者のように、時にはおじいさんのように、時には禅マスターみたいな感じで振る舞ったりもする。でも、いつでもあなたはあなただし、さまざまな顔があるみたいな感じ。
Borthwick: 素敵なコメントをありがとう。感動したよ。
鈴木: 個人的な作品も商業的な作品も、変わらないんですよね。だから誰も真似できない。
Borthwick: 本質的には、両方とも同じものなんです。それは大事なことで、なぜなら、人生でやることはすべて、自分自身から生まれてくるものだから。もし意図的に、それを「これ一つに反映しよう」と思ってやっていたなら、それは「ビジネス」という感覚から来ていることになる。僕の源はスピリットだし、スピリットに導かれている。だから、自分が前面に出ないようにできるんです。そのやり方は意図的なものじゃなくて、わかっている場所ではない、無邪気さと好奇心の感覚から来る場所なんです。何かが起こる前に、それをコントロールすることはできないとわかっているということ。マジックのための余白を、ちゃんと確保しないといけない。そこには必ずサプライズがあって、必ず光が差しているから。それに注意を払っていればわかる。たとえば仕事の現場に着いて、こういうものにしたいというアイデアがあったとする。でも、モデルが現れて、もしかしたら髪を切っていたり、「服を変えたい」と言い出したりして、突然すべてが変わってしまうことはある。だから、何も考えないこと。夢を見ようとしないこと。ただ、自由の感覚を許してあげること。
鈴木: 考えるな、感じろ、ですね (笑)。
Borthwick: そう (笑)。ただ、あるがままでいること。これから作られるものについて先に考えてしまったら、それは常に、これから起ころうとしていることの邪魔になるんです。だって、それは「知っている」ことになってしまうから。わからないままにしておくことで、ある種の必然性と、イメージの解放が生まれる。物事はそれ自体の意志で起こる。マジックは本物なんですよ、あなたが光についていくならね。












