ファッションの力と緩やかなつながりの可能性。川上未映子が語る文化実践としての言語化について
mieko kawakami
photography: chikashi suzuki
styling: mihoko sakai
hair: tsubasa
make up: tomohiro muramatsu
interview & text: yuzu murakami
小説家・川上未映子。日本のみならず、世界各国の読者を魅了する彼女は日々、SNS を通じて世界中のファンと交流している。本インタビューは、「服を着ること」がいかに身体に影響を与えうるかという、ファッションと身体の関係から始まった。そこから、文体の変化、SNS 時代における「フェイク」の氾濫、ルッキズムと美の基準、多岐にわたる話題が展開された。一見ばらばらに見えるこれらのトピックはすべて、女性をジャッジするさまざまな基準や人間のどうしようもなさ、フェミニズム的視点といった川上未映子の作品と呼応している。それぞれの問いの先に、彼女が言葉で開こうとしている新しい文化実践の可能性が見えてくる。取材にはフォトグラファーの鈴木親も立ち会い、川上と共に撮影を振り返った。
ファッションの力と緩やかなつながりの可能性。川上未映子が語る文化実践としての言語化について
Portraits
—川上さんは普段からファッションがお好きだと思うのですが、ファッションに惹かれるようになったのは、どんな体験からだったのでしょうか?
私は、大阪のストリートの母子家庭の家で育ったから、子どもの頃は、いわゆる「いい服」みたいなものは持っていませんでした。それでも、洋服が大好きでした。ちょっとリボンが付いてるとか、胸元に銀色のラメが施されていたりとか、ボタンの大きさとか、そういうディティールが忘れられないんです。母と行ったスーパーで、ワゴンに積まれていたトレーナーがどうしても素敵で。でも母に言うと困らせるだろうなと思って黙っていたんです。そうしたらクリスマスの朝、枕元にそのトレーナーが置いてあって。無理をさせたんじゃないかと思うのと同時に、やっぱり本当に嬉しくて、涙が止まりませんでした。ほかにも、お弁当を包んでいたハンカチや、参観日に母が着ていた花柄のワンピース、姉とお揃いで着ていたストライプのスカートや、母の膝に乗っていたときに私が着ていたタータンチェックのスカートとか。もう手元にはない洋服のことを、本当によく覚えています。記憶と感情と密接に繋がっています。
—ファッションはときに「贅沢」なものとして軽視されることもありますが、川上さんご自身はどのように考えていますか?
ファッションに対しては──特にハイブランドについては、いろんな考え方がありますよね。お金を払うだけで、相手の威光を借りて、自分が何者かであるような振る舞いができてしまう。また、たとえば有事のときには一瞬でその価値が変わりもします。大地震が来ればヒールは命取りですし、どんなに高価なジャケットも防寒着にはならない。けれど、ファッションは、ときに文学にも共通するようなフィクションとして、強く機能するときがあるのだと思います。フィクションを重ねていくことでしか触れることのできない現実があるんですよね。ファッションに対する興奮や疑いが、逆に、替えの効かない、身体の生々しさを意識させることがあるんです。そう、服は脱げても身体は脱げない(笑)。そういう根本的な認識にファッションは関わっていると感じます。
話はちょっと逸れますが、子どものときに観た「ラ・セーヌの星」というアニメの最初のほうで、二人の女王がファッション対決をするパーティーのシーンがあったんです。主人公のシモーヌが花屋の娘なので、そのファッション対決のために、片方の女王のドレスに本物のお花を縫い付けるように言われて、一生懸命縫うんですね。でもその対決で、シモーヌがついていた側の女王が負けてしまう。そのせいで、お花屋さんをしていたシモーヌの両親が殺されちゃうんです。ファッションの優劣で人が殺されるなんて、と衝撃を受けました。あのときから、ファッションは、楽しむものなのかもしれないけれど、どこか人の生き死にかかわるものなんだという印象があるんです。
―川上さんの作品についてもお伺いしたいです。デビュー当時は独特の文体があって、最近の作品だと、その文体が透明になっていったような印象を受けたのですが、どのように変化していったのでしょうか。
女性の体のことを書いた『乳と卵』が一番最初にたくさんの人に読んでもらうきっかけになったので、「女性ならではの文体」とか「感性で書いてる」みたいな評価がとても多かった。「違う。頭で書いてる」って思ったんですよ。批評家も男性ばっかりだったし、褒めてるつもりで言ってるんでしょうけれど、でも無意識に、自分たちを脅かさない存在として評価して、周縁化しているなと感じました。だから三作目の『ヘヴン』では、女性も大阪弁も主力ではない作品にしようと思い、語り手は、自分からとても遠い十四歳の少年に設定して、明確に文体を変えた記憶がありますね。でも、その後はなんかやっぱり川の流れのようで、自分が意図したようにはならないというか。
―「川の流れ」というのは?
形式が文体を要請してくるんですよね。私は「どう読まれるか」についてあまり考えるほうじゃないんですが、でもたとえば、「今日は24時間、寝れないな」というときの身体の感じとか、心づもりってあるじゃないですか。それと同じように「1年半、新聞で連載か」と思ったときに、それに合った文体を装備して物語をパッキングする能力が、何年もやっているうちに自然についてきたんじゃないかなと思います。
―文庫化された『春のこわいもの』に収録されている短編「あなたの鼻がもう少し高ければ」では、SNS から垣間見えるルッキズムの加速が描かれていました。川上さんご自身は、SNS 時代の「かわいさ」や美の基準について、どうお考えですか?
たとえば、今の韓国のアイドルから来ているかわいさは、現代のコンサバティブな価値ですよね。確かに綺麗だからその魅力もわかる。関連動画が永遠にサジェストされると、「これしかない」と思ってしまう。でも、「これだけではない」ってことを若い人たちには思ってほしいです。目がぱっちりで、鼻はこの形で、みんながトリックアートみたいなメイクをしているなかで、それもいいけど、それはひとつのコンサバティブでしかない。人はやっぱり人に大きく影響を受けるものだから、やっぱりいろんな才能とか、いろんなフォルムとか、それこそ言葉も、若い子たちにはたくさんのロールモデルがあったほうがいいと思う。例えば、自分が欠点だと思っている部分をすごく活かしている人がいたらハッとすることとかあるでしょう? そういうリレーションでつながっていけるといいなって思います。
―それって、ある種の超・緩やかなシスターフッド的なものでしょうか。
どうでしょうね。全部でつながることはできないけれども、パーツでつながるっていうか。遠くにいる人の何かと、自分のネガティブなものがどこかで光が当たったときにつながって、こういうふうにも見えるんだっていう経験を、若い人にはひとつでも多く味わってほしいと思います。すべて変わっていきますから。芯があるのは大切だけれど、これしかないんだって思い込まないでほしい。
―川上さんは、別のインタビューなどでも「私はフェミニストなので、」とさらっとおっしゃられていますよね。今も、フェミニストであることを公言しにくいと感じている人もいるでしょうし、フェミニズムという言葉自体も忌避されている印象がありますが、どのように感じていますか?
たとえば『夏物語』が海外で読まれるようになってからは「フェミニズム小説を書いているフェミニスト作家」と紹介されることも多くなりました。私は女性の身体や生活について書いているし、私自身、フェミニストですが「フェミニズム小説を書いているフェミニスト作家ではない」と答えるようにしています。というのは、自分の作品がどう読まれてもよいのですが、「フェミニズム小説を書いてるフェミニスト作家」と紹介することで、紹介する側も、その言葉で理解する側も、らくをしていると感じるからです。フェミニズムやフェミニストを、大文字の文学とは違う、何か別の表現であると暗に示して安心しているわけですね。これは特別枠なんだって。言葉が変わっただけで、昔でいうところの「女流作家」の意味合いで使われてると感じることが多いです。いっぽう男性作家が男性の生活や困難や葛藤を書いても、今も昔も、人間や国家や社会について書いたことになるわけでしょう。この非対称性については、ずいぶん前の本になりますが『男流文学論』(上野千鶴子、小倉千加子、富岡多恵子著・ちくま文庫)というとても面白くて為になる本があるので、ぜひ探して読んでみてください!
―『黄色い家』はシスターフッドとその崩壊、「娘について」でも女性の間での経済的な格差やルックスの格差、『夏物語』や「早稲田文学フェミニズム特集号」の巻頭言などでも、女性同士でなかなか連帯できないことについて書かれていたように思います。連帯のできなさについてはどのように考えてらっしゃいますか?
フェミニズムって基本的に学問がベースにあるものですよね。たとえば上野千鶴子さんと、30代の女性とでは、知識も違うし、背景もキャリアも、持っているものも全然違う。経験の積み重ねも違います。フェミニズムは一枚岩じゃないし、一人一派っていうのは、今でもその通りだと思います。若い女性から「未映子さんはフェミニストだって自分で言えて強いなと思う、自分は関心はあるけれどそんなふうには言えない」と言われたことがあります。みんな真面目なんですよね。ちゃんとしてなきゃ名乗れない、って。最先端の議論もちゃんと把握できてるのか不安だし、ちょっとでも間違えると怒られるんじゃないかって萎縮して、発言するのをやめちゃうとも言っていた。もちろん、学問としてフェミニズムを勉強することも大事だけど、私の考えるフェミニズムって、社会に新しい規範をつくろうとしてるんじゃなくて、「文化実践」だと思ってるんです。もっと開いて言うと、しっかりと根付いていく流行りですよ。それくらい、生活と密接にあるものだと思う。
この10年近くで、言葉にしても、振る舞いにしても「あれって、なんかおかしかったよね」ってみんなが気づき始めて、共有されて、ちょっとずつやめて、べつの表現方法を知っていく、そんな変化がありました。それが文化実践だと思うんです。たとえば、CHANEL がやったこともそうですよね。スーツの素材を変えて、ポケットをつけたことで動きやすくなって、働きやすくなる。あれは新しい道徳や規範を作ったんじゃなくて、新しい文化を作ったんですよね。でもそれを「自分たちのルールを壊そうとしている」と受け取ってしまう人もいる。でも、違うんだよね。ルールを壊したいんじゃなくて、文化と新しい考え方を作ったの。だから、フェミニズムも文化実践のひとつなんです。

—今回の撮影は、フォトグラファーの鈴木親さんとのコラボレーションでの企画ということでしたが、親さん写真についての印象をお聞かせください。
川上: 親さんに撮ってもらうのは、私にとって本当に特別なことだと感じています。いろんな現在、いろんな場所が、この瞬間に数限りなくあるのに、いま、親さんと私はおなじ場所にいて、この一瞬を共有しているんだ、と強く感じます。親さんの写真はもともとすごく好きです。作家の文体に当たるようなものが写真家にもあると思うんですが、親さんのシグネチャーというか、文体みたいなものを、もし言葉にするとしたらなんだろうと考えていて、「幽玄」になるんじゃないかな、と思いました。神秘性、奥深さ、気高さ……美意識を質をあらわす幽玄という言葉にはいくつかの意味がありますが、その幽玄を親さんの写真の青い色、被写体の、とくに瞳の表情から感じるんです。ほかの写真でよく拝見するモデルや俳優たちも、親さんの写真のなかでは、まったく違う輪郭と奥行きを引き出されていて、違う時間をまとっていて、いつも見入ってしまう。
そして、親さんは、篠山紀信さんと荒木経惟さんという日本の二大写真家のエッセンスを抱いている貴重な写真家だとも感じています。親さんの青も特徴的ですが、荒木さんにもまた違う青の時代がありましたよね。それから、親さんが The Fashion Post で以前、紀信さんへの本当に素晴らしいインタビューをなさっていたのを拝見して、こんなふうに後進の写真家に理解されることってなんて幸せなことだろうと思いました。このお二人にとって親さんのような実践者による批評は、僥倖そのものなのではないでしょうか。
鈴木: 川上さんとお話ししていると、荒木さんの写真についての理解が誰よりも深いことに驚くのですが、それは荒木さんが言葉を大切にしているからだと思います。僕らの業界は言葉を置いていこうとしてしまうところがあるんだけど、実際は言語能力が高い人が多いんですよね。荒木さんも言葉を大事にしているけど、恥ずかしいからか「適当だよ」みたいなことを言う。でも、実際はすごくロジックが整理されている。篠山さんもすごくロジックがあるんだけど言わない。そういう美学があの年代の方にはあるんですよね。
—親さんは川上さんを撮るにあたってどんな構想があったのでしょうか?
鈴木: 今回は被写体もよくて服もいいから、少し乱暴にしないといけないと思っていました。写真のなかの全部が綺麗なものになると、見る人が目を留めずに通り過ぎてしまうんですよね。だから、僕にとってはキャスティングは特に重要でした。被写体の人の芯が強ければどんなに乱暴に撮ってもいいし、むしろ、背景やライトとのバランスでその芯の強さが出てくることがあると思っています。だから今回はスタジオの床の凹凸にも照明を当てて写したりもしていますね。ファッションもそう。CHANEL は社交界のパーティーで着るよりも、街でバサっと着ているほうが素敵に見えたりする。そういうギャップに惹かれます。川上さんの小説にもそういうギャップがあると感じています。
川上:たとえば作家は、自分の得意なところを強化していく作家と、できないことにチャレンジして常に新人であろうとする作家がいると思うんですが、親さんご自身はどういうふうにご自身の写真家のキャリアを選んで来られたんですか?
鈴木:その対比も篠山さんと荒木さんですね(笑)。写真を続けていって上手くなっていくと、だんだんと自分のコピーになっていってしまうんですよね。だから、一回、下手にするっていうのは大事にしています。具体的には、自分のアベレージの表現が出ないように、リスクの高い方法をとる。たとえば、写真のフィルムにはネガとポジがあるんですが、ポジフィルムを使うとか、デジタルで撮影するときにはライトを大きく動かして正解じゃないものも含めて撮っていくとか。やってることは一見すると変わらないんですが、その中で微差を加えていくことが、小さいけれど自分をアップデートすることにつながっていると思います。
—「文化実践」としてフェミニズムやファッションをとらえるお話が出ましたが、最後に、写真やファッションが社会に及ぼす影響について、お二人のお考えをお聞かせください。
川上: 今日は最初に CHANEL を着させていただいたんですが、Gabrielle Chanel (ガブリエル・シャネル) 自身がストリート出身でありながらエレガントなものを作り続けた人ですよね。彼女自身は怒りのエネルギーが強い人のようですが、その偉業に匹敵するような、ためらいや不安がいつもあったように思います。彼女の感情や人生から、ジャージやズボン、リップスティックなど、女性の日常や社会を変えるような概念や表現が生まれた意味を考えることは、私たち個人がどう生きるか、ということと無縁ではないように思います。
鈴木:Richard Prince (リチャード・プリンス) が、「アメリカの最大の発明はジーンズだ」と言っていました。ジーンズって、アラブの人たちも着ていたりもする。強制的な介入に対する反発がある一方で、それって実は、文化こそが一番強く社会に影響するということなんじゃないでしょうか。CHANEL がコルセットを外したデザインを提案したり、寝巻きに使われていた素材でスーツを作ったりしたことがきっかけになって、社会の価値観が大きく変わっていったように、すぐマスにはならないけどトップダウンで新しい価値観が浸透していって社会は変わってきたんですよね。アートやファッションの面白さはそこにあると思います。