think about
Multiples Inc.
vol.16

【連載コラム】 買えるアート、マルチプルのススメ

『MULTIPLES, INC. 1965-1992』

think about Multiples Inc. vol.16
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【連載コラム】 買えるアート、マルチプルのススメ

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Multiples Inc.
vol.16

text: yusuke nakajima
edit: miwa goroku

アートブックショップ「POST」の中島佑介が、今気になるファッション、アート、カルチャーの起源を自身の目線で解説する隔月連載コラム「THINK ABOUT」。第16回目のテーマは、作家の指示のもとで量産されている芸術作品 “マルチプル” について。ナンバー付きの “エディション” と言い換えたらピンと来る人も多いかもしれません。今では世界中のギャラリーやアーティストが制作している “マルチプル”、その普及に貢献した先駆的存在である Multiples Inc. (マルチプルス インク) という美術出版社の活動を紹介した 1冊 『MULTIPLES, INC. 1965-1992』 とともに、マルチプルの概念と魅力に迫ります。

アートは所有できるものへ

最近、オークションでの作品高額落札のニュースや、クリプトアート、NFT といった新しいアートの流通など、美術作品の取引についてのニュースが多くなりました。こういったニュースを目にするたび、美術作品が美術館など特別な場所に飾られていて鑑賞するだけのものから、対価を支払って所有できるものへと、社会意識が変化しつつあるのを感じます。

一方で、到底支払うことができない金額での取引が世間を賑わせることが多いので、作品を入手することが身近な出来事と感じられなかったり、興味があっても躊躇してしまう方もいるではないでしょうか。

1点から多くても数十点しか作られていない作品に対して、「エディション」というものがあります。エディションは「マルチプル」とも呼ばれ、作家の指示のもと、量産された芸術作品のことを示します。金額に躊躇してしまう方は、まずはマルチプルから購入してみるのが良いのではないでしょうか。Tシャツ1枚の金額で購入できる価格帯のマルチプルもあるので、決して敷居の高いものではありません。

僕自身が作品を身近に置くことに興味を持ち始めた頃、手に入れた作品といえるものはオノ・ヨーコの [ARAISING] という小さなオブジェで、これは低価格どころか展示会場で無償で配られていたものです。黒い箱の中に石灰石が入っていて、中で石が動くと箱内に石灰が付着して、黒かった内側が徐々に白くなっていきます。黒い箱が抑圧された社会環境、白い石がその環境に生きる個人を示しているオブジェでした。このオブジェを自宅で飾っていたことをきっかけに、美術作品が日常生活とは縁のない特別なものだという思い込みがなくなったように思います。今回は、美術をより身近に楽しむきっかけとなりうる、マルチプルについて掘り下げてみます。

 

マルチプルのはじまり

マルチプルという言葉は 「多数の」「複合的な」 という意味の単語で、「ユニーク」 と対になる言葉です。一般的に 「ユニークピース」<「写真・版画などの複製可能な芸術」<「マルチプル」 の順に制作数が多く、マルチプルは工業的に作られることも多いため、相対的に低価格であることが特徴です。このマルチプルのアイデアは 1950 年代の中頃に、フランスで活躍していた 2人のアーティストが考案したといわれています。

今では世界中で、多くのギャラリーやアーティストが継続的・積極的にマルチプルの制作をしていますが、今日の状況に先駆けて、マルチプルの制作をおこなっていた組織がありました。アメリカを拠点にしていた Multiples Inc.です。

NYのマディソンアベニューにて開廊当初の Multiples Inc. の様子 (1966)

Multiples Inc. の活動は1965年にスタート、現在もニューヨークでギャラリーを運営する Marian Goodman (マリアン・グッドマン) をはじめとする数名によって設立されています。この頃はマルチプルの発展期ともいえる時代で、多くのアーティストや出版社、アートムーブメントがマルチプルの制作をしています。トレンドとしても芸術作品が単一のオブジェではなく、新しい素材や現代的な製造技術を使って制作されるようになり、マルチプルはその新しい潮流を象徴する存在でもありました。

Marian Goodman が Multiples, Inc. を運営する目的を 「これまでに存在し、これからも存在し続けると思われるアーティストと、流行り廃りのないプログラムに取り組むため」 だったと語っています。彼女たちはアーティストが 「本質を追求しその時代をリードする存在で、新境地を切り開くために必要な人々」 と捉え、芸術が社会を良い方向に導くと考えていたからこそ、流行に左右されずに長期間に渡って活動を継続できる手段を作り上げたかったのでしょう。

レジェンドたちも賛同、合流

このスローガンは見事に実現され、多くの組織が70年代に入るとマルチプルの制作を休止してしまったのに対して、Multiples Inc. は約30 年間に渡って活動を続けました。また、アメリカ国内だけでなく世界中のアーティストたちとコラボレーションを行っています。活動期間中に制作されたマルチプルは Andy Warhol (アンディ・ウォーホル)、Donald Judd (ドナルド・ジャッド)、Man Ray (マンレイ) や Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス) など、現代美術の歴史に欠かせないアーティストたちが名を連ね、総数にして90人以上のアーティストとともに、約900種類を制作しています。

Multiples Inc.が初めて発表したマルチプル (1966)

Multiples Inc. は残念ながら1992年に解散してしまいますが、50年代に生まれたマルチプルの概念を継承し、そして進化させながら、世界中に浸透させる大きな役割を果たしました。Multiples. Inc. のマルチプルは Marian Goodman が1977年にオープンした Marian Goodman Gallery で今も一部販売されています。

解散直前のマルチプル (1990)。Sol LeWitt (ソル・ルウィット/左)、Lawrence Weiner (ローレンス・ウィナー/右) などが制作

マルチプルの資産性

世界各国でマルチプルのアイデアを活用するアーティストが増え、美術界の最新の動向をより多くの人々に伝えることができるようになりました。マルチプルは芸術の民主化を進めた存在でもあり、さらにはアーティストが活躍できる場を広げた側面も大きいのではないでしょうか。

作品を所有することの意義として、最近のニュースで取り上げられている資産性は、ひとつの分かりやすいポイントです。マルチプルも例外ではありません。たとえば Multiples Inc. が 1970年に制作した 『Artists & Photographs 1970』 という19名の作家が参加しているポートフォリオは発売当時125ドルでしたが、今では5000ドルを超える価格で取引されています。まだ低価格で入手可能な現代作家のマルチプルが、数年〜数十年後には何倍〜何十倍もの価値に変化していることもあり得るのです。

現在5000ドルを超える価格で取引されている 『Artists & Photographs 1970』

僕自身の体験では、美術作品が生活の中にあることで変化した大きな点は、美術館での展覧会で作品の見方が変わったことでした。それまでは鑑賞の対象だったものが、購入できる可能性のあるものだと思って作品を見たときに、自分の好みで見ることができて、無理に作品を解釈したり理解したりする意識がなくなり、気負いなく楽しめるようになったと感じます。美術に興味があるけどなんだか難しそうと感じている方にもぜひ、まずはひとつ、感覚的にでも気になったマルチプルを購入してみることをお勧めします。